2008年5月25日号
 
 
  創立80周年記念講演
歴史に学び未来語ろう
日本国民救援会 山田善二郎会長

 

日本国民救援会
山田善二郎会長

 国民救援会創立80周年を記念し、4月4日に行われた記念講演の要旨を紹介します。3面に山田善二郎・国民救援会会長、4〜5面に小森陽一・東京大学教授。(文責・編集部)

 日本の平和と民主主義、国民の基本的人権の未来にとって、重要な節目ともいうべき情勢のなかで、国民救援会は創立80周年を迎えました。私どもに課せられた責務は、いつにも増して重くかつ大きいものであると痛感させられており、先達の教えに学びながら、今日の情勢に立ち向かい、輝かしい未来への展望を切り開くべく決意を固め合いたいと考えるものです。
 1928年4月7日、天皇制軍国主義の弾圧の嵐に抗して、犠牲者とその家族の救援のために結成された国民救援会は、戦前においては治安維持法下で逮捕・投獄される危険を冒して救援活動を行い、戦後は、アメリカ軍の占領下での謀略や軍事裁判、数々の弾圧に立ち向かい、わが国の人権と民主主義のたたかいの歴史に、貴重な頁を飾ってきました。

犠牲者の心己の心とし

 占領下の時代に弾圧された犠牲者のために、満足に食事を摂る金もなく、空腹に堪えながら、留置場から次の留置場へと犠牲者にコッペパンを差し入れたという、先輩の苦労話を思い出します。とくに初代書記の太田慶太郎さんの次の言葉は、今も私の心に強く残っています。
 「おおむね20歳代から30歳代位の当時の救援活動家が、『今日救援する身が明日は救援される身』であることを充分承知しながら、厳しい弾圧のなかで、食うものも食わず、己を空しうして、犠牲者と家族のために献身したことは尊いものであった」
 ヒューマニズムとは、犠牲者の心を己の心とし、権力の悪に対しては敢然とたたかう精神と固く結びついたものであろうと思います。そして、太田さんのこの言葉に示される精神こそが、私たちの活動に生かすべき救援運動の原点だといえるのではないでしょうか。
 私が国民救援会を知ったのは、朝鮮戦争が熾烈を極めていた最中に起きた鹿地亘不法監禁事件を通してでした。
 鹿地事件は、戦前プロレタリア文学運動に参加、中国に亡命し侵略戦争に反対してたたかった経験をもつ鹿地亘さんを、アメリカ諜報機関・キャノン機関が、中国に対するスパイにするために拉致・監禁した事件でした。当時、キャノン機関の秘密の監禁施設でコックをしていた私は、鹿地さんの救出に協力しました。そのとき、いち早く私と鹿地さんの激励に駆けつけてくれたのが国民救援会でした。

権力に立ち向かう精神

 私が初めて訪問した当時の国民救援会の事務局は、東京・港区新橋の「文工会館」という、木造建物の3階にありました。東京都本部や松川事件対策委員会、三鷹事件対策委員会、メーデー事件被告団などの小さな事務所が置かれ、占領下で引き起こされた、数かずの謀略や弾圧事件の犠牲者救援運動をたたかう拠点となっていました。
 そこを訪れるまでの私は、三鷹・松川などの事件は日本共産党が仕組んだ陰謀であり、メーデー事件などは日本共産党が計画した犯罪的な武装デモだとばかり、頭から信じて疑わなかった一人でした。しかし、鹿地事件などを通し、それまでの政治や社会を見る目は一変し、一連の弾圧事件の真相を知り理解を深めたのでした。
 当時は、ほとんどのマスコミが、法廷で証明された被告人らの真実を正しく報道しようとせず、検察側のメガホンのような役割を演じていました。松川事件の現地・福島では、街頭で真実を訴えていると石を投げつけられたり、メーデー事件の犠牲者には、苦労の末にようやく決まった就職先に警察が来て、何度も解雇された人も少なくなかったと言われています。
 今では想像すらできない時代でしたから、鹿地事件への支援を訴えて歩く私も、つねに警備公安警察の私服に監視され、脅迫や嫌がらせの手紙も送られてきたのでした。こうしたことから私は、どのようにして自分自身を守ることができるかひそかに悩んでいました。そうした私に、何よりの励ましを与えてくれたのは、いつも明るく、ひるむことなく立ち向かう旺盛な戦闘精神を持つ救援運動の先輩たち、真実と正義のために真剣にたたかっている多くの弾圧事件の犠牲者と家族の姿でした。その姿を見て、弾圧犠牲者と同じ戦列に自分を置き、権力の攻撃に立ち向かってたたかうことによってこそ、自分自身が守られるのではないかと考え、難波英夫さん(元会長)にお願いして国民救援会の専従になりました。

裁判批判の巨大な大河

 侵略戦争に明け暮れた戦前と、敗戦後のアメリカ軍の占領下の時代に引き起こされた弾圧の歴史を振り返ってみると、政治のあり方が反動的に激変するとき、とりわけ戦争と弾圧は表裏の関係をなしていることが理解できます。そしてその弾圧は、まず平和を願う人びとの思想と言論活動と、その人びとの組織の破壊を狙いとして加えられました。再び「戦争をする国」へと拍車がかけられ、同時に国民監視と言論活動への攻撃が強められている現実を直視するとき、今日の情勢の重大さを痛感させられ、歴史の悲劇を繰り返してはならないという気持ちにかり立てられます。
 この時期は、米占領軍の命令によるレッドパージや団体等規正令その他の政令と、占領軍の武力を背景にした日本の支配者による労働運動の分裂などにより、民主勢力は大きな打撃を受け、国民救援会の組織もまた弱体化を余儀なくされていました。しかし、戦前の救援運動の体験者やレッドパージされた多くの労働者が居住地で住民に呼びかけて小集会を開き、職場に残ることができた数少ない活動家も創意をこらし犠牲者救援を訴えていました。権力の不正な攻撃は絶対に許さない。この正義感に根ざした、たゆまない活動が救援運動の小さな流れをつくり、その流れが次第に合流し、やがて真実と正義を守れとの巨大な裁判批判の大河へと発展していったのでした。

真正面から闘い前進を

 厳しい情勢のなかにありますが、私たちの未来への展望を語りたいと思います。
 国民救援会の80年の歴史を振り返ってみるならば、つねに権力が作り出す困難や逆境の一つひとつと対決して、事態を能動的に切り開いてきたことがわかります。そして現実に、今年、引野口事件や古本屋店主強制わいせつ冤罪事件で無罪判決を勝ちとり、労働事件や市民事件で成果を勝ちとっている裁判も少なくありません。
 国民救援会の歴史と現実のたたかいは、いかなる困難や障碍も、人間がつくるものである以上、それと真正面から向かい合ってたたかうならば、必ずそれを打開して前進できるのだということを教えています。
 しかもいま国民救援会は、全国の都道府県に本部を置き、400を超す支部と5万人に及ぶ会員を擁する組織に成長し、全国で100を上回る人権侵害とのたたかいを支援しています。ここに、かつての国民救援会とは大きく異なって、組織を拡大して救援運動を強化してきた姿があるのです。
 しかし、「戦争をする国」への道と国民いじめの政治や抑圧政策の強化により、私たちの見えないところで人権侵害に苦しみ、救いを求めている人は少なくありません。私たちの組織をもっともっと大きく強くして、あらゆる職場や地域で、「人権と民主主義のセンター」としての役割を発揮できるようにしなければならないと考えています。
 この課題は、国民救援会の会員の一人ひとりが、犠牲者の心を己の心とし、犠牲者と苦楽を共にする気持ちをもって進むならば、達成できるものと思います。
 会員のみなさん、私たちは新しい歴史を産み出す創造者なのだとの誇りと確信を持ち、同時に権力の動向の一つひとつに緊張感を緩めることなく、全国の会員が心を一つにして歩むことを誓い合いましょう。日本の平和と民主主義のために、さらに大きな成果をおさめることを目標に、力強く前進しましょう。

 
  米、政府と最高裁に圧力
米大使が最高裁長官と密談
「米軍は違憲」の伊達判決破棄ねらい

 アメリカ軍の日本駐留は憲法違反だ――1959年3月、東京地裁・伊達秋雄裁判長は砂川事件で画期的な判決を出しました。この違憲判決を覆すために、アメリカ政府が日本の政府や最高裁に圧力をかけたという驚くべき事実が、国際問題研究者の新原昭治さんの調査で明らかになりました。(編集部・鈴木)

 毎年アメリカを訪れ、日米関係を調査している新原さん。今年4月、米国立公文書館で、解禁された膨大な極秘資料の調査のなかで、1通の電報が目に留まりました。
 「CHIEF JUSTICE TANAKA TOLD……」
 伊達判決に関連して米駐日大使と最高裁長官が極秘に会ったことを報告するものでした。

伊達判決の衝撃

 50年代後半〜60年の日本は、岸信介政権のもと、安保改定反対闘争、三池闘争、沖縄復帰闘争、そして松川運動など国民運動・労働運動・大衆的裁判闘争が大きく高まり、一方で弾圧や不当解雇などの攻撃がぶつかりあう激動の情勢にありました。このもとで砂川事件は起きました。
 57年7月、東京・砂川町。米軍立川基地拡張のための測量に抗議をした人たちが基地内に立ち入ったことが安保条約の刑事特別法違反とされ、7人が起訴されました。
 59年3月30日、東京地裁・伊達裁判長は、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる危険があり、米軍は「戦力」にあたるとして、米軍の駐留を違憲と断罪し、全員無罪としました。
 「この判決は、秋に安保条約改定の調印を予定していた日米両政府に大きな衝撃を与え、安保改定反対の国民の運動を大きく励ましました」――砂川事件弁護人として奮闘した内藤功さん(国民救援会顧問)は振り返ります。
 判決から4日後、政府は、高裁を飛ばし最高裁に異例の跳躍上告を行いました。これに対し弁護団は「1千人規模の弁護団を組む」と記者会見。その後、最高裁・斎藤悠輔裁判官が、「弁護人は被告1人につき3人に絞る」と決定して審理を急がせます。弁護団は、不当な訴訟指揮だとして斎藤裁判官の忌避を申し立ててたたかい、弁護人の人数制限を取り消させました。
 最高裁大法廷は8月10日、松川事件の有罪判決を破棄差戻し(7対5)。9月に、砂川事件の口頭弁論が大法廷で6日間にわたり開かれました。検察は、検事総長を筆頭に治安維持法下の弾圧の先頭にたった元思想検事など異例の布陣で臨みます。弁護団は堂々の弁論を展開。12月16日、大法廷は全員一致で、「米軍駐留は『戦力』に当らない。高度の政治問題は裁判所の審査になじまない」とし、伊達判決を破棄し、東京地裁に審理を差し戻しました。
 翌60年1月、岸内閣は、国民の反対を押し切り、日米安保条約改定の調印を強行しました。

逆転判決の裏に

 最高裁での逆転判決の裏に、アメリカの圧力があったことが、今回、マッカーサー米駐日大使から米国務省に送られた電報など「部外秘」資料から明らかになりました。その内容を追うと……
 3月30日、伊達判決当日。大使は早速外務省と連絡をとり、翌31日には藤山愛一郎外相と、閣議の1時間前に話し合いをもちます。大使は、「大衆の気持ちに混乱を引き起こしかねない」と跳躍上告を提案。外相は提案に全面的に同意し、「閣議で承認するよう勧めたい」と述べます。その後政府は、跳躍上告を行いました。
 4月24日受信の電報では、大使が、砂川事件で大法廷の裁判長を務める田中耕太郎・最高裁長官と密談。当時最高裁には3千件を超える係争事件があり、田中長官は「本件には(審理の)優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到着するまでに少なくとも数カ月かかると語った」と報告されています。

いいなり日本

 自国の利益のために平気で他国の内政に干渉し、圧力をかけるアメリカの姿は、アフガニスタン、イラク戦争に見られるようにいまも同じです。同時に、アメリカの圧力に唯々諾々と従う日本政府の姿はいまも変わりません。
 今回の極秘文書でとくに見過ごせない問題は、田中耕太郎最高裁長官の対応です。
 憲法を最も尊重し、「職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される(憲法76条)」最高裁長官が、憲法ではなくアメリカに「拘束」されていた事実。松川裁判への国民的な批判を「司法の独立」を侵すとして、「雑音に耳を貸すな」と恫(どう)喝(かつ)した田中長官は、アメリカには「耳を貸していた」のです。この問題について今の最高裁に問い合わせたところ、「お答えすることはありません」(広報)との回答が繰り返されました。最高裁の姿勢もまた同じなのでしょうか。
 「日米両政府は、日本国民の運動を恐れていたと思います」――新原さんは、極秘文書をこう読み解きます。
 大使が外相に跳躍上告を求めたときの言葉にあるように、国民の運動、そのいしずえにある日本国憲法を恐れているのだと強く感じました。

砂川事件をめぐる動き
1957年 9月 米軍立川基地に立ち入ったとして刑事特別法で逮捕(その後7人起訴)
1959年 3月30日 東京地裁が米軍の駐留は違憲と全員に無罪判決(伊達判決)
1959年 3月31日 マッカーサー米駐日大使が藤山外相に跳躍上告を提案
1959年 4月3日 検察が跳躍上告
1959年 4月24日 大使が田中耕太郎最高裁長官との密談を米に報告
1959年 9月 最高裁で6日間の口頭弁論
1959年12月16日 最高裁が合憲判断・差戻し
1960年 1月 改定安保条約調印
1961年 3月 東京地裁で有罪(63年確定)