今年は国民救援会の創立から80年の年です。今日のように4万7千人以上の会員を擁する、日本最大の人権団体になるまでに、多くの人びとと連帯し、権力による弾圧とたたかってきました。国民救援会がどのような時代に創立され、いかなる運動を経て発展してきたのか、その80年のあゆみを追いかけます。(文中敬称略)
第1回は、国民救援会の結成とそれに至る救援運動の源流を探ってみましょう。国民救援会は1928年(昭和3年)に創立されますが、話は明治にさかのぼります。
天皇制権力とのたたかい
1868年に始まった明治維新によって、日本は政治・経済・文化の面において大きな変化を遂げました。徳川幕府に替わって新政権を担うことになったのは、国を統治する全ての権限を天皇が握る絶対主義的天皇制権力の確立をめざす勢力でした。
・自由民権運動
この勢力に対し、かつて武士階級だった士族や、土地や資本を持った豪農・豪商が中心になって、参政権と自由および自治を求めて自由民権運動が沸き起こったのです。
この運動に対して支配権力は、絶対主義的天皇制秩序を維持するために、大逆罪(天皇、皇族などに対し危害を加えた者、加えようとした者は死刑とされた)、不敬罪(天皇、皇族などを批判する行為が犯罪とされた。公然の要件がないため、日記にも適用された)、内乱罪といったものを柱に、国民を抑圧する法制を次つぎと打ち出していきました。また、政府を批判する言論に対する抑圧法制(新聞紙条例、出版条例、治安警察法など)も矢継ぎ早に打ち出しました。
こうした経過のなかで、1889年に大日本帝国憲法が施行され、絶対主義的天皇制権力が確立していきます。明治の初期以降、この国民抑圧体制に対抗し、農民のたたかいとも結んで展開された自由民権運動は、過酷な弾圧によって明治終期に挫折・凋落(ちょうらく)しました。
・大正デモクラシー
自由民権運動が挫折したといっても、国民のなかにその種子は受け継がれていきました。大正時代(1912年〜)に入ると、進歩的な知識人が中心となった民主主義運動、大正デモクラシーが始まりました。さまざまな課題を掲げた自主的集団による運動が展開され、民主主義、自由主義への時代思潮がつくりだされたのです。しかしこの運動は、運動の担い手となった小ブルジョアジー階層の狭さやひ弱さもあって、強権政府の前に国家体制を揺るがすような運動には至りませんでした。
現代につながる団体・組織の結成
1920年 |
新婦人協会 |
1921年 |
日本労働総同盟、自由法曹団 |
1922年 |
全国水平社、日本農民組合、日本共産党、学生連合会 |
1923年 |
日本共産青年同盟 |
1925年 |
日本プロレタリア文芸連盟 |
1928年 |
全日本無産者芸術同盟 |
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新たな運動の担い手
こうした自由と民主主義を求める権力とのたたかいのなかで、1920年以降、新たな運動の担い手となったのは、労働者・農民が結集した社会主義運動、労働組合運動、農民運動などでした。この時期において国民は、侵略戦争反対、主権在民、生活向上、社会進歩などを求めて専制政治と立ち向かい、歴史を動かす前面に登場したのです。実際この時期には、現代につながる団体・組織の結成が相次いでいます(別表)。
・治安維持法の登場
このように発展・高揚してきた国民のたたかいに対して、権力側は従来の弾圧立法のみでは効果的に対処できない状況をふまえ、社会主義運動の徹底的な弾圧をはかりました。この弾圧立法の頂点をなすものが、1925年に公布された治安維持法でした。治安維持法は、弾圧対象の焦点を結社に絞り、「国体ノ変革」という新たな構成要件をもつ刑罰法を導入しました。なお治安維持法は、当時、国民の大きな要求であった普通選挙法(25歳以上の男性に選挙権と被選挙権を与える)と抱き合わせで公布されました。このことは、今の公職選挙法による選挙規制や選挙弾圧の狙いを考えるうえで、見逃せない点です。
この治安維持法による弾圧は、裁判によって処罰することよりも、警察留置場への長期の拘禁とこれによる「転向」を強要し、屈服させて、釈放後は国民監視体制のもとで思想統制を強化することにこそ、その目的がありました。こうした暴虐は、アジア・太平洋地域での侵略戦争の遂行と一体のものとしてすすめられたのです。
解放運動犠牲者救援会創立宣言
(1928年4月7日)
我が国最近の社会的状勢は労働者農民と資本家地主との闘争を益々激化せしめてゐる。
貧窮と抑圧の生活に抗争しやがては自らの搾取を支配階級より解放せんとする労働者農民に対して資本家と地主の政府は弾圧を以て臨むのである。
労働者農民の解放運動こそ平和と自由の使者であり、よりよき社会の曙光である。然しながら社会進化のあるところ悲壮なる犠牲者あるは普く歴史の示すところである。
労働者農民の解放運動一度吾国に起りし以来、傷つき倒れ獄に投ぜられし者はその数数へ難き程であらう、親を失ひ夫を離れたるそれ等の家族は幾度悲嘆の泪にくれた事であらう、まことに解放運動に於ける犠牲者はその政治的傾向の如何に関らず社会進化の犠牲者である。
吾等が茲に解放運動犠牲者救援会を組織するに至ったのは、解放運動に於ける各種の犠牲者及びその家族を救援慰安することを以て吾等の社会的責務と信ずるが故である。
労働者農民は自らの戦線の犠牲者並にその家族救援のために一致団結せよ!
正義と同情の人は社会進化の犠牲者並にその家族救援のために起て!
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国民救援会の創立と理念
こうした情勢のなか、当時大きく社会問題化していた野田醤油労組の争議への弾圧で犠牲になった労働者やその家族を救うことを目的に、超党派的な救援組織の創設が準備されました。ところが、結成準備の間に治安維持法による日本共産党への弾圧事件(3・15事件。全国で1568人が検挙され、483人が起訴された歴史的大弾圧事件)が起こされました。このため、国民救援会はまだ「準備会」の段階でしたが、東京、大阪、京都、神戸、福岡、仙台、札幌など犠牲者の出たところにすべて支部をつくって、抗議や救援の行動に立ち上がり、この犠牲者救援、統一・公開公判要求・傍聴者組織などのたたかいが、最初の活動となりました。
・国民救援会の創立
1928年4月7日、国民救援会(当時の名称は「解放運動犠牲者救援会」)の創立大会が開かれました。会場となった協調会館(現在の東京都港区、中労委会館)には、3・15大弾圧の直後であったために、救援運動の重要性を痛感した人びとが続々と詰めかけ、会場の講堂は600人の参加で超満員になりました。
採択された創立宣言は、わが国の進歩と革新、平和と民主主義を守るたたかいにおいて弾圧された人びとは、「その政治的傾向の如何に関((ママ))らず社会進化の犠牲者である」として、「犠牲者並(ならび)にその家族救援」を、思想信条、階層の違いを越え、大衆的に展開しようと呼びかけました。馬島〓(かん)、大山郁夫、布施辰治の記念講演に熱烈な拍手が送られ、弾圧の嵐のなか、前進への大きな期待と自信に満ちて国民救援会が創立されました。
・救援運動の意義
戦後、国民救援会の会長を務めた難波英夫は、当時の救援運動の意義と任務を次のように伝えています。
……救援会は犠牲者救援運動の労働者農民に対する外部からの生温かい同情者の組織ではなくして、労働者・農民自身の内部からの大衆的な組織であって、ただわれわれ自身が先に立って自己を防衛することによってのみ、他の層の同情者をも引きずってわれわれの解放運動に応援せしめ得るものである。
(「解放運動犠牲者救援運動の意義と任務」『マルクス主義』1929年4月号)
これは、弾圧の強化に対して萎縮し、国民救援会の組織を「同情者の社交団体」に変えて、差し入れと家族の慰問などのみにとどめるべきだという「退却論」に対する回答となり、国民救援会の創立時に掲げた方針を再確認する力となりました。
※次回は、国民救援会の戦前・戦中の姿を追っていきます。
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