2004年1月5日号
大分・選挙弾圧大石市議事件
不当弾圧に屈せず更にパワーアップ
 大分・豊後高田市は奇岩の山々が連なり、国宝富貴寺、熊野磨崖仏などをはじめ貴重な石仏がいたる所にあり、自然に囲まれた緑豊かな地です。
 昨年の統一地方選挙で不当逮捕・起訴された豊後高田市議・大石忠昭さんは、今日もその地で、「住民の声を議会に」と奔走しています。町を歩くとあちこちから「大石さ〜ん」と声がかかります。その一方で「方言丸出し弁論大会」で最優秀賞を獲得したり、郷土史の研究や古代荘園の田圃の保存などにも貢献しています。そんな大石さんを2人の息子さんはどんなふうに見ているのでしょうか。

何にでも一生懸命

 父は一人の男として魅力があります。小さい頃から、家から見える山を全て登ろうと休みのたびに連れて行ってもらいました。「苦労して得た達成感を知らせたかった」という父の思いは、勉強も遊びも、集中して一生懸命やれ、ということにも現れています。
 父は、健康に良いということが好きで、昨年の夏はゴーヤとナスのみそ炒めをずーっと毎日つくっている、そんなところもあります。今でも腕立て伏せやウォーキングなどは毎日続けています。
 そんな父にパワーを感じます。常に何かを考えているという印象があり、たまには「フゥー」と息を抜くときがあってもいいのですが。趣味の写真はその息抜きのときだと思えるのですが、その時でも考えている。

母との二人三脚で

 住民に配布しているニュース「みんなの高田」は、今までは父が原稿を書いて母が手書きして、毎週発行していました。原稿を書くのもすごいと思いますが、毎週それを手書きしていた母もすごいと思います。2人の絆を強く感じます。今は父がパソコンをはじめたので、1人で作っていますが、レイアウトはものすごく細かくやり、写真も必ず入れています。
逮捕の時、家族は? 父が逮捕されたときは、不安はありましたが、救援会のみなさんが事前に来てくれていろいろな話をしてくれたということもあって、冷静に対応ができました。母が父を思う気持ちや、父がいないのだから家族で力を合わせてやっていこうと思い、一緒にしんぶん赤旗を配ったり、集金したりしました。
 逮捕の時は、「大石さん大丈夫か」と、電話が鳴りやまなかった。沢山の励ましの言葉や近所の人が手伝ってくれて、回りの皆さんに支えてもらっていると、とても実感しました。今でも裁判のとき、大勢の人が傍聴に駆けつけてくれるので、感謝の気持ちでいっぱいです。

2人の今の気持ちは

 和幸さん「逮捕されてからの父は更にパワーアップしたように見えます。出来る限りフォローしていきたいと思います」。
 哲也さん「福岡にいるので即手伝いができないのですが、出来るだけ帰ってきて、手伝いをしたいと思っています」。

大石忠昭さんの決意

 大石さん宅に、家宅捜索が入った時、奥さんの妙子さんが立ち会いましたが、18人の警察官を前に不当な捜査をさせないと一歩も引かなかったことは、地元では一つの武勇伝として、語られています。

 とてもすばらしい家族に支えられた大石忠昭さんは、「中村・祝事件の長年の闘いの成果を引き継ぎ勝利を確信し、ねばり強く頑張ります、宜しくお願いします」と新年の決意を語ってくれました。 
憲法を正面にすえて救援会の役割を発揮しよう
日本国民救援会会長 山田善二郎
 みなさんに、心から新年のお祝いを申し上げます。
 今年は、昨年にもましてきびしい情勢に直面しています。

戦争する国にさせない闘い

 自衛隊のイラク派兵を許さず、国民保護法制の制定や憲法改悪阻止など、戦争をする国にさせないたたかいが、いよいよ本格的になります。
 長時間労働、年金制度や健保制度の改悪、生活保護の切り下げ等など、人間の命とくらしがいっそう危機にさらされています。
 警察が自治体や民間組織などを巻き込んだ大掛かりな国民監視体制を進めています。人権を無視した裁判が激化し、冤(★)罪に苦しむ人びとが後を絶ちません。治安を最優先する司法改革の作業が進められていることは重大です。
 侵略戦争が生活破壊、国民監視・弾圧と一体となって進められた歴史の事実を想起すると、新たな気概をもってたたかうべく決意を固めあう時であると思います。そして、戦争に反対し、弾圧や人権侵害とたたかい今日を創り上げてきた救援会75年の歴史と、勝ちとってきた成果に確信を深め、その教訓を今後のたたかいの糧としたいと思います。
 戦前、私たちの先達は、自分自身も弾圧を受けることを覚悟して、弾圧犠牲者と家族の救援に打ち込みました。戦後、アメリカ軍の占領下では、三鷹事件、松川事件など、多くの謀略や弾圧事件が引き起こされ、加えてアメリカ占領軍の軍事裁判により、おびただしい数に上る犠牲者が、獄の内外で困難な裁判闘争を強いられた時代でした。
 多くの先輩は、あらゆる困難にめげずにたたかい、松川裁判の勝利をはじめ、言論・表現の自由を守るための裁判など数々の裁判闘争で勝利し、冤(★)罪諸事件の犠牲者救援や権力犯罪の責任追及などへとたたかいを発展させ、わが国の民主主義を守るたたかいの歴史に、貴重な頁を刻みながら、国民の人権擁護の防波堤を強化してきたのでした。

第52回大会の成功へ奮闘を

 この救援会はいま、400を越える支部を主体に、弾圧を許さない力を作りながら、自由な選挙をめざすたたかいや、権力犯罪の責任追及から警察制度の民主的改革を求める活動、国民に開かれた司法制度の実現を求める活動などを旺盛に進めています。
 選挙弾圧大石市議事件、再審開始をめざす大崎事件、日野町事件、布川事件、最高裁の横浜町杉山元町議公選法事件、その他各地で裁判闘争をたたかっている冤(★)罪事件や人権侵害の裁判などを支援しています。救援会は、いまや国民の人権と民主主義を守るセンターとしての役割を果たしつつあるのです。この救援会の力を遺憾なく発揮して憲法を守り生かす活動を正面にすえて、平和と民主主義、人権を守るために打って出て、救援会に課せられた課題を全うしながら第52回全国大会を成功させ、さらなる前進にむけて奮闘しましょう。
 たたかいの中で迎えた新年にあたり、心からの挨拶と致します。
今年を平和と人権の年に−ともに道を拓こう−
自由法曹団団長 坂本 修
 全国各地で、人権の擁護のために、御活動の国民救援会のみなさん、あけましておめでとうございます。
                                      ☆
 昨年3月20日、アメリカ・ブッシュ政権によるイラクへの大儀なき武力侵略が強行され、小泉内閣は、これに、一貫して積極的に同調し加担しました。
 小泉内閣は、米軍も「イラクは戦争状態にあり、その全土が戦闘地域である」としているにもかかわらず、広範な国民の反対に背をむけて、昨年12月9日、イラク派兵「基本計画」を決定しました。陸海空あわせて約1000人の武装兵力を流血の戦地に投入し、戦後史上、はじめて「殺し、殺される」事態をつくろうとする―こうした憲法にも、違憲の特措法にさえも反する戦後史上最大の暴挙に反対して、私たちは全力をあげてたたかうべきときを迎えています。
 違憲の派兵を強行する小泉内閣は、憲法そのものの生命を奪う改憲を早期に実現しようとしています。しかも、改憲策動と連動し、それの先取りとして、教育基本法改悪、国民保護法制制定、テロ防止、麻薬取締り強化を口実とする「共謀罪」制定などが企まれています。あらためて、「戦争をする国」と「民主主義と人権を奪う国」は一体のものであると痛感しています。
                                      ☆
 こうした流れの中で、国民のための司法改革か、それとも、政府・財界の路線により奉仕するための司法改革かをめぐっての複雑な“せめぎあい”が、あいついで具体的な立法過程に入ります。この課題は、たとえば「刑事裁判改革」ひとつをとっても、裁判員の人数比、人質司法の抜本的改善の放棄、証拠の「目的外使用」制限と違反者の処罰、弁護人らに対する裁判官の専権での制裁と「処置」請求の義務化など、本来の司法改革の目的に反する疑いのつよい重大な問題をもっています。まともな司法改革を求める国民の要求を拡げ、つよめながら、私たちの求める司法改革の実現のために、知恵と力をあわせて、ねばりづよく、共同を拡げる運動にともに取り組みたいと思っています。
                                      ☆
 一連の事態はたしかに戦後史上、かってない重大なものです。自由法曹団は、文字通り、歴史の岐路に立っていることを痛感しています。しかし、けっして、たじろいではいけません。人間らしく生きたいという要求は、国の内外で確実に広がり、つよまっている、こうした要求を実現するための運動は、また、“点々たる光”ではありますが、つながってきていることを私たちは、活動を通じて実感しているからです。
 私たちの志すところは、広範な国民、さらには、イラク戦争反対で1日で1000万人が集まった世界の人々のそれと共通であること、歴史の主な方向は、私たちの側にあることをお互いの確信できる時代なのではないでしょうか。
 それぞれの得手を生かし、荷を分かちあって、今年を平和と民主主義、人権の実現への道を大きく拓く年に必ずやしようではありませんか。
今年も、ともにがんばりましょう 
北海道本部 会長 守屋 敬正
青森県本部 会長 渡邊 義弘
秋田県本部 会長 小林 泰夫
岩手県本部 会長 鈴木  博
山形県本部 会長 佐藤 欣哉
宮城県本部 会長 庄司 捷彦
福島県本部 会長 安田 純治
茨城県本部 会長 横倉 達士
群馬県本部 会長 鈴木 克昌
栃木県本部 会長 小川 富弘
埼玉県本部 会長 桜井 和人
千葉県本部 会長 山田安太郎
東京都本部 会長 玉川 寛治
神奈川県本部 会長 根岸 義道
山梨県本部 会長 広嶋喜栄司
長野県本部 会長 河原田和夫
新潟県本部 会長 藤尾  彰
富山県本部 会長 山本 直俊
石川県本部 会長代行 藤巻渡
福井県本部 会長 山野 寿一
静岡県本部 会長 阿部 浩基
愛知県本部 会長 安藤  巌
岐阜県本部 会長 小野木一雄
三重県本部 会長 今井  茂
滋賀県本部 会長 吉田 和夫
京都府本部 会長 木嶋 浩二
大阪府本部 会長 戸谷 茂樹
奈良県本部 会長 佐藤 真理
和歌山県本部 会長 湯川 能種
兵庫県本部 会長 杉原光三郎
鳥取県本部 会長 小橋太一
島根県本部 会長 森脇 勝弘
岡山県本部 会長 竹内 和夫
広島県本部 会長 新谷 一幸
山口県本部 会長 松田  博
香川県本部 会長 末光 甲正
徳島県本部 会長 林  伸豪
高知県本部 会長 川崎 雅宏
愛媛県本部 会長 酒井  稔
福岡県本部 会長 山本 一行
佐賀県本部 会長 本多 俊之
長崎県本部 会長 熊谷 悟郎
熊本県本部 会長 加藤  修
大分県本部 会長 河野善一郎
宮崎県本部 会長 後藤 好成
鹿児島県本部 会長 亀田徳一郎
沖縄県本部 会長 新垣  勉
借金や重税に苦しむ農民らの蜂起を描いた
映画 『草の乱』
“最後の自由民権運動”―秩父事件/変革への勇気与える/
救援会京都府本部事務局長 橋本 宏一


 秩父事件で、困民党の中心になっていたのは、当時の自由民権思想に目覚めた自由党員たちでした。総理・田代栄助、副総理・加藤織平、会計長・井上伝蔵、参謀長・菊池寛平、甲隊長、乙隊長、さらに村毎の小隊を編成し、「金品の略奪、女性への暴行、酒宴を開くこと、私ごとでの喧嘩や放火、指揮官の命令に背く行動」を厳しく戒める規律をもって行動しました。高利貸しや役場、警察署などを襲い、要求を聞き入れなかったところでは、証文を焼き捨てたり、建物に火をつけたり壊したりしましたが、近隣の家には濡れ筵(むしろ)をかけるなどして類焼を防ぐことも忘れませんでした。彼らは「恐れながら天長様(天皇)に敵対するから加勢せよ」とオルグし、「専制政府を転覆してただちに国会を開く革命の乱」と訴えていたことから、革命を自覚していたことがうかがわれます。それゆえに、秩父事件は自由民権運動の最後にして最高の形態、と言われています。

故郷での撮影に参加

 いよいよこの史実が、映像となって、私たちの前によみがえることになりました。緒形直人主演、神山征二郎監督の映画『草の乱』がそれです。映画『草の乱』製作委員会が出資金提供を呼びかけたところ、目標4億5000万円近くが寄せられ、昨年10月から秩父でクランク・インし、今年4月の完成予定です。
 蜂起の地、吉田町(当時は上吉田村)で生まれ育った私は、曽祖父が困民党軍に参加したことをよく聞かされました。そして救援会の活動とも関わって、事件を学ぶうちに、困民党の指導者たちのひ孫たちと学校で机を並べていたこともわかり、秩父事件がよけいに思えるようになりました。そんなことから、映画化に町が全面協力しオープンセットが設営されたとの知らせに歓喜し、ボランティア・エキストラにも進んで参加しました。私は困民党軍の鉄砲隊員で、役場から河原を逃げて行く警官隊を追いかけ、威嚇発砲をする役回りです。

井上伝蔵の「遺志」

 映画は、会計長・井上伝蔵(緒形直人)の動きや視点を通じて展開していきます。伝蔵は裕福な商家の跡取りで、自由党の中央と秩父の組織をつなぐ役割を果たします。また、俳句や歌を詠む文化人でもありました。武装蜂起には時期尚早を理由に反対しますが、蜂起の決定には従いました。事件後村内の友人宅にかくまわれ、蔵のなかで約2年間潜伏生活をしたあと脱出、官憲の目をかいくぐって北海道へ逃れます。名前を伊藤房次郎と変えて、代書業や文具商などを営み、結婚し子どもも生まれ、やがて野付牛村(北見市)で終焉のときを迎えます。1918年(大正7)、重病に最期を悟ると、妻や子どもたちを集め、初めてほんとうの身分を明かし、われらは決して「暴徒」ではない、やましいことはしていない、同志たちの追悼を頼む、旨述べて息を引き取ります。事件から33年7ヵ月の歳月が流れていました。

人間と歴史のドラマ

 井上伝蔵が息子や娘たちに伝えたかったこと、それは、富国強兵、殖産興業を推し進める政府・権力が、国民に重税を強い、言論、表現、結社、出版などの自由と人権を奪い、弾圧をしている、それへの正当な怒り、マグマの変革エネルギーではなかったでしょうか。事件を鎮圧した専制政府はその後、侵略戦争と人権抑圧の暴政を押し進め、アジア人2000万人、日本人310万人もの命を奪いました。この歴史を私たちは忘れることはできません。由由民権運動を壊滅させた政治は、装いを変えつつ今なお、軍備拡大、重税、不況などで私たちの生活を圧迫しつづけています。
 映画『草の乱』は、自由と民主主義の思想を頼りにたたかう道をみつけ、変革へ行動する人間と歴史の巨大なドラマです。この映画が、深い感動を与えながら、今を生きる私たちに、眠らされているかもしれない、まっとうな怒りを呼び覚まし、変革への勇気と手がかりを与えてくれるにちがいありません。完成と公開が楽しみです。
※今年全国公開予定

〈秩父事件〉1884年(明治17)11月1日、大蔵卿・松方正義のデフレ政策のもと、借金や重税などに苦しむ農民たちが、埼玉・秩父地方で困民党を結成し、借金の10年間据え置きと40年賦の延期、税の軽減などの要求をかかげ、数千人が武装蜂起した事件です。一時は1万人近くの困民党軍が大宮郷(現秩父市)を占拠し、「革命本部」の名による指揮、通達を発布し、年号を「自由自治元年」と改めました。震撼(しんかん)した明治政府は軍隊の出動を命じ、群馬、長野へと転戦する困民党軍を追撃、9日に八ヶ岳山麓で壊滅しました。

30年前から撮りたかった
「草の乱」監督 神山征二郎


 いまから30年ほど前、映画監督になりたての私は、雑誌に連載された井出孫六氏の「秩父困民党群像」を読み、それ以来、秩父事件をいつかは撮りたいと考えていた。秩父事件は、覇を外に求め、戦争への道を進む明治政府が富国強兵政策をとるなか、苦しみぬいた挙句の農民の蜂起である。
 戦後民主教育の「申し子」でもあった私は、今では笑い話ですが中学校での補習授業の強制などに反抗し、学校を“つぶそう”と思い至ったことがあった。圧迫や抑圧には耐えられない、抵抗する――当時から私のなかには、秩父事件などと相通ずるものがあったのかもしれません。
 農家に生まれた私は、日本人が一般的にいだいている「農民像」に違和感をもっています。農民は、学問もなく、下品で、権力に言われるままに泥まみれで働いている。しかし実際は違います。私の周りを見ても、しゃんとし、世の中に物申す農民が多くいた。その真の姿を『郡上一揆』でも伝えたかったのです。
 いま、血みどろになりながら勝ちとった民主主義が危ない。第9条をはじめ憲法の改悪がいよいよ本気で狙われている。この時にこそ、『草の乱』を多くの人に観てもらいたいですね。
(談)
 
2004年新春座談会
今年こそ原口さんに“春”を
大崎事件の支援で元気一杯の女性たち
 2002年3月に再審開始決定を勝ちとった鹿児島・大崎事件では、検察の即時抗告を棄却せよと、原口アヤ子さんとともに全国に運動を広げています。大崎事件の支援にがんばる女性会員のみなさんに、語り合ってもらいました。

あけましておめでとうございます。昨年3月、7年間の慎重な審理を重ねて、鹿児島地裁で再審開始決定を勝ちとりましたね。

 原口 再審開始決定が出た時は、本当に、飛び上がりたいくらいうれしかったです。弁護団の先生方の弁護活動と、救援会が全国で署名やカンパなど一生懸命活動してくださり、裁判官に真実を認めていただいたということだと思いました。本当にありがとうございました。
 3日後に検察が即時抗告をした時には、本当に腹が立って腹が立って、残念でなりませんでした。

救援会では、福岡高裁宮崎支部に対して検察の即時抗告を棄却せよと全国的に運動を強めてきました。

 福一 昨年は5月に九州ブロック―長崎、福岡、熊本、佐賀―を原口さんがオルグしました。6月は東京、神奈川、埼玉、千葉。7月に大阪。9月は広島、愛知、静岡。10月徳島。12月沖縄。どこでも、大変温かく迎えて激励していただき、原口さんも1つでも多くの団体を回ろうと頑張って歩いてきました。
 10月の現地調査には、今までより多くの県から参加していただき、事件を広めることができたと思っています。
 再審開始決定を勝ちとってから、原口さんもとってもいい笑顔になりました。私が最初に会った頃はとても暗くて、笑った顔は一度も見たことがありませんでしたから。
それではまず、大崎事件との出会いについて、みなさんからお話ください。
 河野 原口さんと最初に会ったのは、毎年1回1泊で行っていた学習会です。97年3月、安川電機賃金差別裁判の原告が阿蘇でペンションを始めたということで、みんなで激励を兼ねて泊まりに行くことになりました。そこで、まだ大崎事件についてはみんな学習したこともなかったので、原口さんを呼んで話を聞くことにしました。
 永仮弁護士と福一さんと3人で来てくれました。他にも学習する予定で準備していったのですが、原口さんが話しだしたら止まらなくて、大崎事件だけの学習会になってしまいました。(笑)
 参加者の感想文には、「一貫して無実を貫き通して刑期を満了し、1人でコツコツと再審の署名を集めている人は特別な人かと思ったら、普通の小柄な女性で、どこにそんな力があるのか驚いた」、「生の話にびっくりした。北九州でみんなにも聞いてもらいたい」など綴られています。
 そこで、9月に北九州で最初のオルグと学習会を企画しました。印象に残っているのは、野外での集会で署名を集めた時です。原口さんは1人で署名用紙を持って、参加している人にどんどん話して回るのよ。外で日は暗くなるし、迷子にならないか心配でした。
 そんなわけで、97年の現地調査から支部から毎年、代表が参加しています。事件そのもののひどさというのもあるけど、やはり原口さんのエネルギーに打たれたという部分が大きいですね。
 大崎事件の支援ということだけでなく、地元の若松国賠の守る会結成集会にも原口さんを呼んで訴えてもらうことで、原口さんだけでなく、匿名でたたかうA子さんをすごく激励することができました。

 緒方 4年前に広島までオルグに行く原口さんを、福一さんに代わって空港まで連れて行くのを頼まれたことが出会いです。新聞報道で事件については多少知っていたものの、救援会も知らなかったので、「警察に疑われた人なのだから犯人でないということはないのでは」、と思っていました。
 その後、救援会の事務局を少しずつ手伝うようになって、事務所にいる時に資料を読みあさる中で、どうしてこの人が「犯人」になってしまったのか知りたくなって、現地調査にも参加しました。

 山本 私は介護師をしていますが、勤務する病院に救援会の班があり、朝礼で医師の三村先生(倉敷支部顧問)が事件支援の訴えをしていたんですが、当時は私も「だれかがするだろう」と他人事のように聞いてました。
 2年前に病棟から「あかね」という保健施設に異動になった後、先輩介護師の倉田ひろ子さん(倉敷支部事務局次長)から、「三村先生のうちでお茶会があるから一緒に行こう」と誘われました。興味本位で行ってみるとおいしいお菓子と紅茶で接待を受けたあと、最後に「救援会に入会してくれませんか」と言われたんです。「これか!」と誘われた理由を悟りました(笑)。5人参加したうち3人はすぐに入会したんですが、私はすぐには入りませんでした。子どももこれからお金がかかるし、月300円払って新聞だけ取ることにしました。
 2ヵ月後に倉田さんから、仙台で行われた救援会の全国大会の報告会を聞いて、感動して、「こんな私でも何かしなければ」と、入会しました。そして、寝台特急に16時間ゆられて、10月の現地調査に参加しました。何をすればいいのかわからなかったけど、帰る時に原口さんに握手をしたら、「署名をお願いします」と言われて、「私は署名をすればいいんだ」と気が付いたんです。それで今、署名に頑張っています。

 長浜 私は趣味で写真を撮るのですが、高隈事件国賠の勝訴判決の時撮った写真に、原口さんが写っていたのが出会いです。会員としてできることはやっていこうと、宣伝など自分のできる範囲で関わるようになりました。

 福一 長浜さんの撮った大崎事件の写真展は、昨年鹿児島市役所のロビーで開催され、好評でしたね。

 長浜 多くの人に大崎事件を知ってもらうことができて、本当によかったです。

 緒方 山本さんには本当に署名をたくさん集めてもらってるんですが、どうやって集めているんですか。

 山本 職場の人は協力的で、集めやすいんです。本人だけでなく、家族の分も書いてもらうよう声をかけています。書いていない人には催促をして、書いてもらえるまで待ってます。入所者の家族、研修に来た短大生。職場に出入りする散髪屋さんも何枚も署名用紙を持って帰って、来る時に埋めて持ってきてくれています。
 高校生の息子の友だちにも必ず声をかけているので、息子も「簡単になら僕でも言えるで」って、友だちに話してくれます。親戚、同級生、近所の人、とにかく誰にでも話しています。そして外出する時には、いつもカバンの中に署名用紙を入れていきます。

 緒方 そうやって集めた署名が、今日もらった分も含めて1000筆ですよ。

 原口 再審開始決定は出されたけど、署名を集めないと勝てないと思い、お願いしています。山本さんは、人からいやがられるくらい、熱心に集めてもらって、本当にありがたいです。大崎事件を支援する中で、感じていることなど、教えてください。

 長浜 大崎事件にかかわって一番感動したのは、原口さんが「自分自身のことだけではなく、他の人にも、いつ冤罪は起きるかわからない。冤罪をなくすために、どうかご支援ください」って訴えるようになったんです。人間というのは、闘いの中でどんどん変わるんだって思いました。

 原口 私は最初、自分のことしか訴えていませんでした。親戚や子どもたちに迷惑をかけて申し訳なく、早く自分の冤罪を晴らしたいという思いだけでした。でも、救援会を知ったことで、他の事件のことを知り、まだ獄中で泣いていらっしゃる人たちのことが、かわいそうで……。
 私はいろんな人に直接訴えることができますが、名張事件の奥西さん、袴田事件の袴田さん、日野町事件の阪原さんなど、まだ獄中から無実を訴えている人たちがいます。この人たちのためにも、大崎事件で早く再審無罪を確定させたいという思いです。

 緒方 救援会の事務局を務めるようになって、全国に冤罪が本当にたくさんあることを知りました。新聞記事は丹念に読むようになりました。
 いま、各地から署名を送ってきてもらっています。現地調査に参加された方が、「これではいけない」と思って、一生懸命集めてくれているようです。
 署名用紙1枚5筆ずつ、毎日のように送ってきてくれるところもあります。北海道の伊達支部からは、「こちらは白いものが舞い落ちて来るようになりました。鹿児島はいかがですか」なんて一言が、毎回必ず添えてあります。こちらからもお礼状と、原口さんのオルグの近況など添えてまた署名用紙を送ると、また一杯に埋めて返してくれるんです。それがすごくうれしいんです。
 課題は、地元である鹿児島で署名数が伸びないことです。県本部主催の宣伝行動以外で増えることがないので、それが残念です。

 緒方さんの妹さんも今日、宣伝に参加していましたね。

 緒方 救援会にも入会してもらい、現地調査にも高校生の息子と参加してくれました。宣伝にも時間の都合がつく限り参加しています。何も知らなかった私がこんなことするって、びっくりでしょ。(笑)

 山本 救援会に入ってから、仕事が楽しくなったんです。それまでは本当に生活のために働いていたような気がするんです。もちろん生活のために働くことは必要なんですが、人のために頑張ろうというか、張り合いが持ててます。これも私を救援会に誘い、指導してくださった三村先生のおかげだと思います。
 職員31人中26人が救援会員あるいは読者です。介護職も、人のためにするところが、人を助けるための救援会の精神と同じ。会員と話していると楽しくなるんです。
 署名を送ると、再審をめざす会の堂添さんから送ってくるお手紙をみんなで見て話をしたり、それがすごく楽しいんです。この前も原口さんからの手紙を倉田さんが持ってきて、みんなで読んでいたら、1人が感動して泣いてしまって……。わかってくれる優しい人はいるんだって、私もうれしくなりました。
 現地調査に2回行きましたが、原口さんを励まそうというより、原口さんがどんどん元気になって頑張っているのを見て、私たちが励まされているみたいです。私は原口さんが好きになりました。

 河野 だから困るのよー(笑)みんな、原口さんのファンになってしまうから。集会の翌日、若松支部ではファンクラブの人たちが、原口さんの宿舎まで追いかけてきたのよ。

 一同 えー(笑)

 福一 やっぱり、原口さんの一貫した無実の訴えに、動かされるでしょうね。

 山本 普通の人が、こんな事件に巻き込まれてしまって許せなくて、大崎事件と原口さんに思いを込めています。日野町事件の現地調査には同僚2人を誘って、救援会にも入会してもらいました。ただ会費を払って新聞読んでいるだけの会員じゃあ、つまらないと思うんです。救援会の活動は、実際にいろんなことを体験してみてこそ面白くて、のめりこむようになるから。

 緒方 山本さんみたいにね(笑)

 河野 でも、本当に権力はひどいと思うことがあります。免田事件の現地調査に行くたびに免田栄さんの弟さんのお宅で、おいしいお漬け物をいただいていたんです。とても控えめだった弟さんが、免田さんの再審が決まってから、顔つきがとても変わったんです。自信に満ちた顔というか。
 それと同じように、最初に福一さんが言ったように原口さんは、再審開始決定をとってからもっと元気になったでしょ。各地をまわって、みんなから激励されて元気になっているということもあるけど、今まで原口さんの笑顔を奪っていたのはだれなのかと考えると、冤罪は本当に本人と家族の幸せを奪うものだとつくづく感じます。

 福一 県本部では今年の3月までに再審無罪をと、県内での宣伝と、福岡高裁宮崎支部への要請を続けてきました。署名は現在約2万5000筆です。先日の三者協議で、裁判所は1月中に書面による立証を終えるように弁護団と検察側に要請しました。事態はいよいよ重要な段階をむかえています。さらに運動を強めたいと思います。

 河野 鹿児島地裁で十分に審理されて出された再審開始決定に対し、検察は即時抗告をして、新たに鑑定意見書を提出していますが、これは、本来、再審開始後の再審公判の場で提出すべきものだと思います。「開かずの門」と言われている再審開始決定が出され、有罪判決が疑わしいから、これから再審の審理を行うということが決まったのに、入り口で検察が妨害しているようなものなのだから。何としても、検察の即時抗告を棄却させなくては…。

 福一 福岡高裁宮崎支部への要請を強めて、宮崎での土日の宣伝も多くの参加者でやらなくてはと決意しています。
 会員へ年末カンパのお願い、請求書と署名用紙を同封して送りましたが、深刻な事態を話して、地元での立ち上がりをつくっていきたいと思っています。

 緒方 鹿児島よりも、他県からの署名が多く送られてきています。地元でもっと頑張らなくちゃね。宣伝も原口さんの訴えがあると違うし、私たちも頑張れるし、参加した人も元気になるし、たくさん集まる。相乗効果があります。

 山本 今日の天文館前(鹿児島の繁華街)の宣伝でも、原口さんが訴えると、署名簿の前に人だかりができるんですよ。私は、今日、“宣伝デビュー”したけど、また元気になりました。(笑)

 原口 私はやっていないものをやったと認めるわけにはいきません。自分の無実を訴え続けるだけです。私はやっていないのだから、警察、検察の間違った判断に、負けるはずがありません。いま、獄中にいる人たちのためにも、一日も早く再審無罪を確定させたい。
 全国のどこへでも参りますので、どうかみなさん、ご支援よろしくお願いします。

 お互いに、身体に気をつけてがんばりましょう。みなさん、今日はありがとうございました。

大崎事件 1979年10月15日、鹿児島県曽於郡大崎町で、原口アヤ子さんの義弟・中村邦夫さんの死体が自宅牛小屋の堆肥の中から発見されました。事故死か他殺か疑問の多い事件でしたが、警察は殺人事件として捜査を開始。検察は親族の共謀による殺人であると断定し、主として関係者の自白、供述に依拠して、4男6女の10人兄弟の長男、次男、長男の妻・アヤ子さんの3人が共謀し「西洋タオルで絞殺した」として殺人罪、次男の子・善則さんを含めた4人による共謀による死体遺棄罪の嫌疑により4人を起訴しました。アヤ子さん以外の3人は捜査段階でウソの「自白」をさせられ、公判でも公訴事実を認めましたが、アヤ子さんはひとり、捜査、公判を通じて一貫して否認を貫き、獄中においても屈せず、10年間の満期釈放後も無実を訴え続け、94年に鹿児島地裁に再審請求を申立てました。(善則さんも97年に再審申し立て。他の2人は死亡し、01年に善則さんも死亡し母親のチリさんが引き継ぐ)
 02年3月26日、鹿児島地裁はアヤ子さんと善則さんの再審請求を認め、再審を開始する決定をしました。しかし、検察が福岡高裁宮崎支部に即時抗告し、現在係属中。
 日本国憲法ってすばらしい(1)
(1)第9条・平和
 いま日本国憲法が危ない! 自衛隊はイラク戦闘地へ武器をもって派兵されようとしているし、国会では改憲勢力が憲法調査会を憲法「改正」のステップにしようとし、自民党は小泉首相の指示で改憲案をまとめる作業を開始しました。しかし「危ない」「危ない」とばかり言ってもなにも始まりません。いまこそ、憲法のもつ本領を発揮させましょう。そこで編集部では、「日本国憲法ってすばらしい」という企画を始めることにしました。毎回、日本国憲法の条文を取り上げ、それがいまどのように生かされているか、また空洞化されようとしているのかを、各分野で奮闘している人の力もお借りしてまとめます。第1回は、第9条・「平和」です。今回の“助っ人”は、日本平和委員会の佐藤光雄さんです。
(編集部・鈴木)

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「第9条」の底力=佐藤さんに解説してもらいます。「第9条は2項からなっています。第1項は『戦争の放棄』を、第2項は『戦力の不保持、交戦権の否認』を定めています。実は、第1項は国連憲章の理念と同じものです。一方、第2項は世界に日本しかない規定です。国連憲章も軍隊の保持は禁止していませんが、第9条は軍隊を禁止しています。国連憲章の平和主義をさらにすすめ徹底した、世界に誇れる条文です。」

 1945年8月6日、広島の国民学校1年生だった佐藤光雄さんは、原爆によって身内を殺され1人ぼっちになってしまいました。戦争は多くの“佐藤少年”を生みました。日本は侵略戦争で、2000万を超えるアジアの人たちを殺し、300万を超える日本人を死に至らしめました。もう2度と戦争によって人を殺すことも殺されることもやめよう、その固い誓いが第9条として憲法に刻み込まれました。

反  省

 戦前の日本は、「富国強兵」を掲げ、戦争につぐ戦争の時代でした。当時の憲法、大日本国憲法は、「戦争のために命を捧げろ」という憲法でした。天皇の陸海軍の統帥権(第11条)や宣戦の権利(第13条)、日本臣民の兵役義務(第20条)などを定めました。さらに「戦争反対!」など言おうものなら逮捕、投獄、虐殺をされました。当時の救援会の活動も弾圧をされたのでした。
 戦前の反省のもと作られた日本国憲法は、「戦争で人を殺してはいけない」「戦争で死んではいけない」という憲法です。さまざまな改憲や軍拡の動きがありましたが、第9条が立ちはだかり、日本は戦後一度も戦争をしていません。

策  動

 戦後の歴史は、日本を戦争する国に戻すのか、戦争をしない平和な国として世界に貢献するのか、第9条をめぐるたたかいの歴史でした。
 戦後「民主化」を進めていた日本に、朝鮮戦争で出兵する米軍の後を補うため、マッカーサーの命令で警察予備隊が結成されます。その後保安隊、自衛隊へと戦力は強化され、防衛費(軍事費)も世界第2位の規模へと拡大していきます。アメリカとの軍事同盟(日米安保体制)により、米軍に対する基地や莫大な「思いやり予算」の提供、共同軍事演習、そして後方支援と、アメリカの戦争への参戦体制を強めていきます。

燎原の火

 これに対し、国民は黙ってはいません。未曾有の広がりをつくった安保改定反対闘争、朝鮮戦争・ベトナム戦争反対闘争、基地のある町や演習地での反対闘争。米軍の駐留や自衛隊は第9条に違反するとの判決を勝ちとった砂川事件や長沼ナイキ事件のたたかい。被爆者を先頭にした核兵器廃絶運動と原水禁世界大会。1人で始まった平和行進もいまでは10万人が参加。「軍事費削って、教育・福祉にまわせ」の運動。近年はアフガンやイラクへの戦争反対の運動が若者を中心に燎原の火のように広がっています。
 第9条の願いは、世界にも広がっています。戦争のための同盟に反対する非同盟運動に、130ヵ国(人口78%)が参加。2月のイラク戦争反対の行動には、世界600都市で1000万を超える人が参加し、その余波はいまも続いています。

根 づ く

 昨年の総選挙では、自民党、民主党など改憲を狙う勢力が増えました。しかし、国民は決して第9条などの改憲を支持したものではありません。世論調査では、74%の人が「第9条を守ろう」と回答し、過半数の人が「日米安保条約は廃棄を」と回答しています(円グラフ)。戦後の平和運動を通じて、国民のなかに第9条は深く根づいています。ここにこそ確信をもちましょう。

真  価

 小泉首相は、自衛隊のイラク派兵の必要性の説明にあたって、こともあろうか憲法前文を引用しました。しかし第9条にはひとこともふれませんでした。国民に根付いているからこそふれられなかったのです。まさに第9条の真価の表れです。
 「第9条を守れ」――いま声をあげるときです。

●平和をめぐる動き
1889年 大日本帝国憲法公布
 日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、韓国併合(10年)、満州事変(31年)、対米英開戦(41年)、敗戦(45年)
1946年 日本国憲法公布
■1950年代
 警察予備隊(7万5000人)の創設(50年)、日米安保条約締結(51年)、日米相互援助協定、警察予備隊を保安隊に改組(52年)、さらに自衛隊に改組(54年)、第1回原水爆禁止世界大会(55年)内閣に憲法調査会設置(57年〜64年)、第1回平和行進(58年)、砂川事件で東京地裁判決(59年)
■1960年代
 安保条約改定(60年)
■1970年代
 安保条約継続(70年)、沖縄返還(72年)、長沼ナイキ事件で札幌地裁判決(73年)、日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)、第1回国連軍縮特別総会(78年)
■1980年代
 防衛費GNP1%枠撤廃、第1回日本平和大会(86年)、「ベルリンの壁」崩壊(89年)
■1990年代
 ソ連解体(91年)、国連平和維持活動協力法(92年)、日米新ガイドライン(97年)、周辺事態法(99年)
■2000年代
 国会に憲法調査会設置(00年〜04年最終報告書めざす)、米同時多発テロ、テロ対策特別措置法(01年)、有事3法、イラク特別措置法、小泉首相が自民党に05年11月までに改憲案作成を指示、自衛隊のイラク派兵を閣議決定(03年)

●自衛隊・駐留米軍は憲法違反

 ○砂川事件 極東における国際の平和と安全の維持のため日本区域外に出動しうる米軍の駐留を認めることは、わが国が自国と直接関係のない戦争に巻き込まれる可能性を含んでいるので、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意」した憲法の精神にもとるし、そのような実質を有する米軍の駐留をわが国が自衛に使用する目的で許容するのは、本条により禁止されている戦力の保持にあたる。(東京地裁1959年3月30日)
 ○長沼ナイキ事件 本条1項が放棄した戦争は侵略戦争であるが、2項が一切の戦力を保持しないとする以上、自衛戦争・制裁戦争を行うことは事実上不可能であり、また、非軍事的な自衛方法が数多く存在するから、自衛権の保有は軍事力による自衛と直結しない。自衛隊は、現在の編成・規模・装備・能力から見て、「外敵に対する実力的な戦闘行動を目的とする人的・物的手段としての組織」としての軍隊であり、本条が保持を禁止する戦力に該当する。(札幌地裁1973年9月7日)
(『岩波判例基本六法』より)

●豆 知 識

○大日本帝国憲法
 公布・1889年(明22)2月11日 施行・1890年11月29日
○日本国憲法
 公布・1946年(昭21)11月3日 施行・1947年5月3日
○自衛隊
 自衛官・23万9806人(2003年3月31日現在)
○防衛費(軍事費)
 4兆9600億円(2004年度概算要求)=世界第2位
○在日米軍
 基地・134ヵ所(27都道県)(2001年1月1日現在=東京都知事本部のホームページより)人数・7万6362人(2001年9月30日現在)思いやり予算・2499億円(2004年予算案)
○憲法を読んだことある?
(自民党憲法調査会による世論調査・1997年)
憲法をよく読んだ    3.6%
ある程度読んだ    25.6%
ほとんど読んでいない 29.6%
まったく読んでいない 41.3%

[編集メモ]今回の“助っ人”佐藤さんは広島への原爆で身内を失い、その後自治体職員として労働運動に参加。原水爆禁止世界大会には第1回から1度も欠かさず参加し、平和を訴え続けている。元自治労連副委員長。66歳/佐藤さんが代表理事をつとめる平和委員会は、現在2万名の会員をもち、個人加盟の国内最大の平和団体/佐藤さんはいつも「日本国憲法」を持ち歩いているそうだが、世論調査で日本国憲法をほとんど・まったく読んでいない人が70・2%という数字も/まずは憲法を読むことが大切な一歩だ/記事に対するご意見・要望をお寄せください。
「朝日」01年5月2日付 世論調査「毎日」01年1月4日付 世論調査※03年日本平和大会in沖縄学習パンフより
6000人の命を救った外交官
杉原千ち畝うね記念館 岐阜
 岐阜・八百津町出身の外交官・杉原千畝氏をご存知でしょうか。
 千畝は第2次世界大戦中、リトアニアの首都・カウナスで日本領事館代理として、ナチスドイツの迫害からのがれようとするユダヤ人難民のために、日本への通過ビザを発給し、6000人の命を救った元外交官です。
 八百津町は、彼の功績を讃え、後世に伝えるための記念公園として、町が一望できる緑豊かな高台に人道の丘公園を、その一角に杉原千畝の記念館を建設しました。千畝は86年に死去しましたが、記念館建立に寄せて夫人・幸子さんは、「もう一度戦争について、人の命の尊さについて考え、そして戦争のみじめさを知っていただける機会になれば幸いに思います」と述べています。

ナチス迫害からユダヤ人を救う

 千畝は、1900年生まれの、ごく一般の家庭と環境で育ちました。小さい頃からおとなしくて優しい性格、それでいて一度自分で決めたことは必ずやり通すという強さを持っていたそうです。
 英語教師を志し早稲田大学に進学しましたが、生活が苦しく、公費で勉強ができる外交官留学生試験に猛勉強の末に合格。ロシア語を学び、その能力を見込まれ、外交官としてスタート。
 リトアニアの日本領事館で領事官代理に任命された39年、第2次世界大戦が始まりました。ヨーロッパではヒトラーによるナチスの独裁政権により、ユダヤ人虐殺が行われていました。
 40年7月、領事館のまわりに日本を通過して海外へ行くためビザを求めるユダヤ人の黒山の人だかりができました。事情を聞いて千畝は日本の外務省に許可を求めますが、「正規の手続きができない者にビザを出してはいけない」との電報が。しかし、その間もユダヤ人たちはますます増え、不安そうに領事館のまわりを取り囲んでいます。ユダヤ人の命を救うべきか、外務省の命令に従って、外交官としての輝かしい道を進むのか、千畝は、一つの答えを出したのでした。

千畝の苦悩をつづった手紙も

 日差しが入って明るい記念館内は、千畝の生い立ち、外交官としての仕事ぶりの展示、ビデオによる生涯が紹介されています。千畝の苦悩した心情をつづった手紙なども展示されています。
 千畝はソ連の収容所に入ったりしながら、47年に家族と日本へ引き上げました。外務省からはすぐさま退職することを勧められ、「私はたとえ少しでもユダヤ人を助けた」ということを誇りに感じながら、退職に応じます。
 「今、あなたは何を感じますか。今、あなたは何ができますか」パンフレットに書かれた文字を、何度も自分に問いかけずにはいられませんでした。(井)

・杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町八百津1071) 9時30分〜17時/毎週月曜と年末年始は休館
〈問い合せ〉 рO574−43−2460
〈行き方〉JR美濃太田駅下車、バスで30分、八百津ファミリーセンターで乗り換え「人道の丘公園行き」バスで10分
*バスの本数が少ないため、事前に確認を。
千畝がビザを発給した執務室を再現した「決断の部屋」http://www.town.yaotsu.gifu.jp
アトリエ訪問
常に“いのち”を描く 画家 渡辺 皓司さん
 1932年、群馬県出身。東京芸大卒、日本美術会会員。日本アンデパンダン展に毎年出展、その他各地の平和美術展、個展多数。(現・日本美術会会長)

 小さい頃から、絵は好きでした。小学校の頃は、絵のお手本があり、それを見て描かされたんです。そういうのは僕はキライで、いいかげんにやってたから、成績は悪くてねー。
 ところが、中学校になったら、美術で「秀」をとって、機嫌を良くして美術部に入ったんです。でも、僕は本来虫も好きで、群馬・渋川に住んでいましたから、年中採集道具一式を持って山に出かけて、虫を捕まえて標本を作ったりしていました。昆虫学者になろうと思ってたんです。でも、絵も好きだから、夜おそくまで描いていましたねぇ。
 高校時代は先生の影響で、日本画をおもに描いていたけど、高校2年の終わり頃、画家になろうと決めましたよ。
                                    ◆
 いまは絵を描くことは生活の一部、自分の身体の一部のようになっていて、絵を描いていると生きている実感がわくんですよ。
 もともと、絵は人間のためにあるので、だから僕は描く中心には「人間」があります。人間というのは、社会生活をしているわけで、社会問題、環境問題にしても、日常生活の中で自分と外部との関係は深くかかわっていますでしょ。
 沖縄にはじめて行ったときに、写真などで見てはいたけれど、現実にアメリカの膨大な基地があって、沖縄の人たちが苦しんでいる姿を直接見てショックを受けてね、「沖縄を描かなくては」と。特におばあちゃんたちが戦争に耐えて生きぬいてきた様子に共感して、おばあちゃんの絵をたくさん描いているんです。沖縄は20年以上描きましたね。(沖縄シリーズ発表)
 自分の眼で確かめたもの、体験したことが常に根底にあるわけなんです。ただ頭の中で想像するだけでは、リアリティのない絵になってしまいます。これは具象・抽象の別なくそうだと思いますね。現実とかかわる大切さですね。
 何を見て、何を感じるかの感じ方は、その人の生き方そのものだと思うんです。それが一番素直で、芸術表現というのはそういうものだと思うんです。
                                    ◆
 いま、描いているテーマは、環境問題です。人間のいのちを脅かすものはたくさんあります。食品、空気、水、化学物質など、地球規模であります。あらゆるところに人間に害を与える、人間の幸せを奪うものです。自然破壊は生態系を破壊するから植物も、動物たちも居場所がなくなるなど、常にいのちの問題、それを描いているんです。
 本当はきれいな花や風景を描いていれば気持いいし、スケッチはあってもそれを作品にすることは滅多にありません。自然は、きれいでいてほしいと思うから、「こいつめー」という、告発のような気持が先行して描いています。
 絵描きは、人から指示されたり命令されたりすることがなく、自由に描きたいものが描ける、これは本当に最高ですよ。誰にも左右されない。アトリエで絵を描いているのが一番楽しいです。
                                    ◆
 救援美術展が始まった頃、日本美術会の事務局長をしていた金野新一さんから、「救援会が今度、事件支援の運動のために救援美術展を開くことになった。ぜひ、協力してくれないか」と呼びかけられたのです。私はもちろん趣旨に賛同して、それから描き始めたのです。その後、日本美術会の会員も、どんどん協力するようになりました。
 救援会のスケッチ旅行で、公選法祝事件の祝一行さんとお会いして、よけい救援会の仕事は大事だな、と感じました。政治的な弾圧事件など見ると、日本の国のあり方が問われていると思います。
 救援会の仕事は、誰かがやらないと、不当逮捕された人は救われないでしょう。本当に大切な、仕事だと思ってますよ。僕らは絵を描いて、多少ともみなさんの資金をつくるということにしか協力できませんが、大事なことに役立たせていただいていると思っています。





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