2003年9月25日号
奈川・国労横浜「人活」弾圧事件
        1審が確定 17年のたたかい、いま全面解決せまる
  神奈川・国労横浜「人活」弾圧事件の5人の原告団は9月4日、懲戒免職無効と、JRへの地位確認を求める民事裁判(東京高裁)の控訴をとりさげ確定させました。これにより、昨年8月の、デッチ上げ事件を5たび断罪したうえ、5人の懲戒免職無効と16年余にさかのぼって国鉄職員の地位を認め、これを引き継いだ日本鉄道建設公団の職員としての地位を確認した1審の勝訴判決が確定しました。

 国鉄改革法案が成立した5日後の1986年12月3日、横浜貨車区につくられた「人材活用センター」という名の隔離部屋で、国労横浜「人活」弾圧事件は起こされました。
 当時、国鉄は余剰人対策として分割・民営化に反対する国労や全動労の組合員を「人活」センターに収容し、仕事を奪い、職制が1日中監視するという人権侵害を行っていました。ここでの劣悪な待遇に対し改善を求めた岡本明男さんら5人が「助役らに4週間の傷害を負わせた」として傷害事件にデッチ上げられ逮捕、そのうち3人が公務執行妨害罪などで起訴されました。

謀略を断罪し5人の地位認め
 93年5月14日、横浜地裁は当局のデッチ上げであることを厳しく断罪し、明確な無罪判決を言い渡し、確定しました。
 刑事事件を理由にした懲戒免職処分の無効を求める民事裁判は、95年に東京高裁で仮処分が確定。
 しかし、当時の国鉄清算事業団はこれを不服として職場に復帰させなかったため、やむなく5人は横浜地裁に地位確認を求める本訴を申立てました。そして、昨年8月の1審判決は、国鉄当局のデッチ上げを断罪し、国鉄を引き継いだ鉄建公団の労働者としての地位を認めました。
 国は被害補償と職場への復帰を 
そもそも刑事事件の無罪確定によって、旧国鉄法、国鉄改革法および諸規定などに基づき5人を事件前の国鉄職員の身分に回復させる義務が国鉄清算事業団とこれを監督する当時の運輸省にありました。それにもかかわらず、国土交通省と鉄建公団は5人の復帰を拒み続け、高裁の和解勧告に対しても不誠実な態度に終始し、最高裁まであらそう姿勢を明確にしていました。
 このような現状を前提に1審判決を確定させ、全面解決をせまる決断をしました。5人は、家族と仲間に支えられながら17年間にもわたり不屈に闘ってきました。このまま裁判を続行することによって、働くことが不可能になることは許されません。
 原告団は、法治国家にふさわしい人権侵害の被害補償と職場復帰に全力をあげるとともに、今後は諸規定上当然存在すべき国鉄作成の採用候補者名簿を隠している、あるいは失くした責任を損害賠償請求訴訟によって追及していきます。
〈激励先〉〒212―0058 川崎市幸区鹿島田無番地 国労新鶴見機関区分会 国労横浜「人活」刑事

救援会が新たに支援した冤罪事件
      宮城・筋弛緩剤点滴混入事件

 救援会中央常任委員会は宮城・筋弛緩(きんしかん)剤点滴混入事件の被告人・守(もり)大助さんと家族、弁護団の要請を受け、宮城県本部と2年間にわたり慎重に調査した結果、この事件を冤(えん)罪であると確信し、第6回中央常任委員会で支援決定しました。

筋弛緩剤点滴混入事件とは

 宮城県仙台市泉区にある北陵クリニックで准看護師をしていた守大助さんが2000年10月31日に当時11歳の患者(A子さん)の点滴に筋弛緩剤「マスキュラックス」(商品名)を混入し、そのため少女が植物人間状態に陥ったとして殺人未遂事件(第1事件)で01年1月6日に逮捕され、のちにこの事件を含む4件の殺人未遂、1件の殺人、計5件で逮捕・起訴された事件です。
 捜査の端緒は、2000年12月2日、同クリニックの半田郁子副院長が「医学的に原因がわからない容体急変が相次いでいて、守さんが何らかの形でかかわっている」と、16件の急変患者リストを宮城県警に提出したこととされています。警察は、それを元に守さんを逮捕し、20件の急変患者リストを作って、自白を迫りました。守さんは、いったんは容疑を認める供述をしましたが、逮捕4日目接見に来た弁護士から「本当にやったのか」と問われ、当日の行動などを思い出し、「本当はやっていない」と「自白」を撤回して全面否認に転じ、以後は一貫して無実を主張しています。
 マスコミは、事件発生当時「前代未聞の連続筋弛緩剤点滴魔」として守さんを犯人視した報道を大々的に展開し、世間一般の人々に「守大助=凶悪犯人」という印象が深く植え付けられた事件でもあります。

事件の争点と弁護団の主張

(1)事件の争点
 事件の中心的な争点は以下の3点です。
(1)筋弛緩剤を点滴投与することに殺傷能力があるのか?
(2)筋弛緩剤の投与が患者の急変の原因か?
(3)守さんが犯行を行った証拠があるのか?
 この事件では、守さんが筋弛緩剤を混入したとする捜査段階での一部供述(弁護団は、供述の任意性、信用性で争っている)を除けば、守さんと犯行を直接結びつける証拠はいっさいありません。
 検察は、(1)クリニック内で守さんが点滴に関わった患者が急変したとする病院関係者の供述、(2)起訴した5件の5人の患者の血液、尿、点滴ボトルから筋弛緩剤マスキュラックスの主成分であるベクロニウムが検出されたとする大阪府警科学捜査研究所の鑑定書(弁護団は全面的に争っている)で、守さんの犯行を立証しようとしています。
(2)弁護団の基本的主張
 弁護団は、起訴された5件を含む、当初検察が主張していた10数件について、守さんはもちろんのこと、何者か(医療スタッフの誰か)が筋弛緩剤を患者に投与した事実は存在しない。患者の容体急変は、すべて他の原因(病気、薬剤の副作用、または気管挿管の救急処置をとることができる医師の不在などの医療過誤)で説明できると主張しており、筋弛緩剤を投与したときの症状と実際の患者の症状とは多くの点で矛盾すると反証しています。

問題点と冤罪の確信

(1)筋弛緩剤とはどんな薬か
 筋弛緩剤は、筋肉を動かす末梢神経系に作用して、筋肉を動かなくする薬です。筋弛緩剤を投入すると肺を動かす筋肉が弛緩(ゆるむこと)して筋運動を止めるため、呼吸が停止し、徐々に酸素不足になり、最終的には脳に酸素が回らなくなって心停止にいたります。しかし、人工呼吸で酸素を送り込めば問題はありません。
 青酸カリのように、それ自体が直接的に人を殺傷する効力のあるものではありません。
(2)点滴のマスキュラックスの濃度、早さを検察は立証せず
 通常、筋弛緩剤は、手術の時などに静脈に直接注射して使用するものであり、体重差などで効果には個体差があります。マスキュラックスの説明書には「排泄(はいせつ)半減期は11分±1であり、短時間で代謝または排泄されて血中から消失する」と記述されています。
 したがって、筋弛緩剤を点滴で体内にゆっくりと入れた場合は、体内に入ると同時に代謝されるので、その効果は少なくなる、と多くの専門家は指摘しています。
 万一、検察が主張するように、点滴投与が患者の急変の原因になるとしても、犯罪を立証するためには、具体的にどのくらいのボトルにマスキュラックスをどの程度混入したのか、点滴の速度について証明する必要があります。検察はこの点については、いっさい立証していません。
 検察は、起訴した5件の患者の血清、尿、ボトルなどから、マスキュラックスの主成分であるベクロニウムが検出されたとし、それが守さんが点滴によって患者の体内にマスキュラックスを混入した証拠だとしています。
 しかし、検察が裁判に提出した大阪府警科学捜査研究所の鑑定には、鑑定資料の入手、保管、鑑定方法、鑑定結果について重大な疑問があります。
(3)警察の鑑定は信用できない!
(1)鑑定方法への疑問
 鑑定は、大阪府警科学捜査研究所で行われました。第1の疑問は、鑑定には1mlあれば十分だと言われているのに、患者の血清、尿、点滴ボトルの全ての資料が消費されたことです。
 犯罪捜査規範186条は、「血液、精液、唾液、臓器、毛髪、薬品、爆発物等の鑑識にあたっては、なるべくその全部を用いることなく一部をもって行い、残部は保存しておく等、再鑑定のための考慮を払わなければならない」と規定しており、今回の鑑定は、犯罪捜査規範にも違反する方法で行われました。公判廷で鑑定人は、資料を全部消費したことについて「他の薬物が混入しているかどうかも調べたので、結果的に全部消費した」と証言しました。しかし、宮城県警からは他の薬物の検出についての鑑定依頼はいっさいありませんでした。
 弁護団は、再鑑定が出来なければ、本当に筋弛緩剤が混入されていたかどうかはもちろんのこと、証拠物とされている資料が本当に5件の患者のものかどうかについての検証も不可能となり、鑑定結果の信用性を否定するものと厳しく批判しています。
 第2に、本当に患者の体内に筋弛緩剤が入ったのか明らかではありません。
 法医学の専門家は、筋弛緩剤マスキュラックスが体内に混入されたかどうかは、その主成分であるベクロニウム(未変化体)の検出だけでなく、それが体内に入って分解され変化した代謝物があるかどうかを分析するのが重要だ、と指摘しています。
 しかし、このマスキュラックスの代謝物は分析されていません。しかも、鑑定資料となった血清や尿が本人のものであるかどうかのDNA鑑定、血液検査さえ行われていません。
(2)信じられない鑑定結果
 第1事件では、10月31日に急変3時間後に採取されたとされる血清のベクロニウム濃度が25・9ng/ml(ナノグラム/ミリリットル)、急変から1週間後の11月7日に採取された尿の濃度が20・8ng/mlとの鑑定結果が出ています。
 マスキュラックスの血中濃度は約11分で半減する、と指摘されています。1週間後の尿から急変3時間後の血清と同じ濃度の成分が検出されたことについては、多くの麻酔専門家がありえないことだと指摘しています。
 日本医科大医学部長の小川龍教授は、このマスキュラックスの濃度問題について、「とても考えられない値だ」と証言。その理由について、「女児に投与されたとみられる筋弛緩剤は、最長2時間(個体差など様々な条件を最大限に考慮したとしても)で血液中の濃度が半減する。尿中の筋弛緩剤濃度は、排出直前の血液中の同濃度と近いため、検察側が検出した尿中の筋弛緩剤の濃度から計算すると、女児に投与されたとみられる筋弛緩剤の量は天文学的な数字になってしまう」と述べました。

起訴5件の容体急変の原因
 弁護団は、起訴された5件の患者の容体急変は筋弛緩剤マスキュラックスによるものでなく、すべてが他の原因(病気、薬剤の副作用、また挿管の救急処置をとることができる医師の不在などの医療過誤)で説明できる、と主張しています。
【第1事件】
 A子さん(当時11歳)のケースは、腸管蠕動(ぜんどう)促進剤プリンぺラン(吐き気止め)の副作用である悪性症候群などが原因

 半田郁子副院長は、第1事件をきっかけに急変患者の原因に疑問を持った、としています。この事件では、A子さんの容体が急変し呼吸困難になりましたが、半田副院長は気管挿入をするなどの緊急処置を行わず、A子さんは意識不明になりました。A子さんの両親は、半田副院長が適切な救急処置を行わなかったことによる医療過誤事件としてその責任を求めて、守(もり)大助さんの逮捕以前に損害賠償裁判を提訴していました。
 A子さんの両親の損害賠償訴訟の訴状では、A子さんは、「目をぱちぱちしているので、『どうしたの』と母親が聞くと、A子さんは『物が二重に見えるというか……』と訴え、『あぁ、のどが渇いた』と言い出した。A子さんは、しきりに頭を左右に振って『のどが渇いた』と言っていたが、最後は言葉にならない言葉を発し、右半身をびくつかせ、何も言わなくなった」と、容体急変の状況が記述されています。
 筋弛緩剤が原因だとすれば、意識がなくなる前に呼吸困難に陥るはずなのに、A子さんは「息苦しい」とは訴えていません。この点について、第130回公判で日本医科大医学部長の小川龍教授は、「筋弛緩剤の効果とは矛盾している」と証言しました。筋弛緩剤を投与された結果、呼吸が抑制されて心臓が停止した、とする検察側の主張に対し、「女児の血中の酸素濃度から見ても、指の先まで酸素が確認できるので、呼吸はしっかりしている」と証言。「けいれんが起きていることは筋弛緩剤が効いていないことと同じだ」とした上で、「脳の中で何かの病変が起きて、呼吸に障害が現れた結果、心臓が停止したと考えるのが普通ではないか」との見解を示しました。
 第134回公判で、角田和彦・小児科医は、A子さんは急変時に(1)白血球が増加(2)体がけいれんした(3)意識レベルが下がっており、急変の原因は、吐き気止めの薬であるプリンぺラン投与による副作用である、と証言しました。
 弁護団は、A子さんの容体急変の原因は、プリンぺランの副作用である悪性症候群などで合理的に説明できる、と主張しています。
【第2事件】
 S子さん(当時89歳)のケースは、心筋梗塞(こうそく)が原因

 主治医である二階堂院長は、S子さんの病変の原因は典型的な心筋梗塞による病死である、と証言しました。S子さんは、容体急変の際に「左側の胸がくるしい」と訴えました。急変を受けてS子さんには、心電図モニターもとりつけられ、二階堂医師の他、守さん以外にも2人の看護師がいましたが、誰もが心筋梗塞以外の原因であることを疑いませんでした。
【第3事件】
 M子さん(当時1歳)のケースは、フラッシュによる脳虚血症発作などが原因

 前記公判で、角田・小児科医は、M子さんは点滴中に点滴が落ちなくなっているとカルテに記載があることなどから、以下の証言を行いました。
 幼児の場合は、まだ右心室、左心室との壁が完全に出来上がっていないケースがある。M子さんの場合は、点滴している針先に血餅(けっぺい)(血のかたまり)が出来た可能性があり、それを処理するためにカルテや看護師らの証言によればヘパリンという薬を三方活栓からフラッシュ(瞬間的に一気に注入すること)したことになっています。このフラッシュした際に、針先の血のかたまり(血餅)が剥(は)がれて、それが血液と一緒に循環して最終的には脳まで達し、血のかたまりが脳動脈でつまり、急変の原因になった可能性が高い、と証言しました。
【第4事件】
 O男さん(当時45歳)のケースは、抗菌剤ミノマイシンの副作用が原因

 O男さんは、「息苦しい、めまいがする」と訴え、二階堂院長が診察して、容体急変の原因は抗菌剤ミノマイシンによる副作用によるものと判断し、処置しています。O男さんは、午後6時頃回復し、半田副院長からは入院をすすめられましたが、「大丈夫」と言って自宅に帰っています。その際に半田副院長は、「ミノマイシンの投与は危険」との書面をO男さんに渡しています。
 O男さんは診察の際に会話ができ、自分で上半身を起こすなど、明らかに筋弛緩剤の投与による症状とは矛盾する点が見られます。
【第5事件】
 K男さん(当時5歳)のケースは、FES手術の負担、てんかん性発作が原因

 K男さんはてんかん性発作を過去にも起こしていました。両親は、4歳ということとあわせて、てんかん性発作を心配して全身麻酔をかけるFES手術に耐えられるかと心配していましたが、半田康延教授はFES手術の大手術を行いました。
 当然、半田教授は、全身麻酔手術前に、てんかん発作の誘発を防止する必要がありましたが、防止のための処置をいっさいとっておらず、それが原因で容体急変になった、と弁護団は主張しています。
違法な取調べでウソの「自白」
違法な取調べに対し
弁護士会が警告
 2001年1月6日午前8時頃、守さんが恋人のK子さん(同僚の看護師)と住んでいたアパートにS看護婦長と刑事数名が来て、「北陵クリニックのA子さんの急変について、話を聞きたいので、警察まで一緒に来てほしい」と言われ、守さんとK子さんは「任意出頭」に応じました。
 守さんとK子さんは、別々の車で宮城県警に連れて行かれ、「なんで呼ばれたかは知っているな、A子ちゃんの件、急変した理由知っているだろう、君が一番知っているんだ」と、警察は守さんを厳しく取調べました。守さんが「急変したのは憶えていますが、なぜ急変したのかはわかりません」などと答えると、「A子ちゃんを急変させたのは君しかいない」と責め立てました。守さんは、警察の罵(ば)声(せい)や強引な取調べに動揺するとともに、一緒に警察に来たK子さんのことが心配になりました。A子さんの急変に対応したのは自分と彼女の2人しかいない。自分がやっていないと頑張ったら、彼女が犯人にされないだろうか、現職の警察官である父へ迷惑をかけるのでは、など精神状態が混乱するなかで、その日(1月6日)に、A子さんの点滴ボトルにマスキュラックスを混入したという「自白」をさせられました。そして、翌7日には、半田副院長の処置や判断に対する不満などの動機を供述した検面調書が作成されています。
 しかし、逮捕から3日後には、接見した弁護士から犯行について具体的に聞かれるなかで、警察の取調べでのマインド・コントロールから解かれ、A子さんの急変時の当日の行動を思い出し、自分はやっていないとの確信を深め、以後一貫して無実を主張しています。
 警察での取調べは、守さんを犯人とした厳しい取調べでしたが、「自白」を撤回して全面否認に転じてからの取調べは、さらに過酷を極めました。
 守さんと弁護団は、仙台弁護士会に対して人権救済申立を行いました。仙台弁護士会は、調査の結果、その事実を認めて、検察や警察官の違法な取調べに対して「警告・勧告および要望書」(2002年9月24日付)を提出しています。
「自白」 は客観的な事実
と矛盾し信用できない
 守さんの「自白」といわれたものは、その内容が極めて抽象的で簡単なものです。その内容も客観的な事実とも矛盾し、真犯人しか知り得ない事実(秘密の暴露)もありません。例えば、第1事件のA子さんの場合には、500mlの点滴ボトルにマスキュラックスを混入し、点滴を開始して5分後に急変したことになっています。
 しかし、守さんの「自白」での混入方法では医学的に5分後の急変は起こりえないことが裁判で明らかにされました。そこで検察官も、第54回公判で橋本保彦・東北大名誉教授により、「点滴ボトルではなく、三方活栓から点滴ボトル側からのチューブに直接混入されたと考えるのが合理的だ」と証言をさせています(図参照)。このように検察官も、これまでの主張を変更し、守さんの「自白」を否定する主張を行っています。

病院の責任問題の転化
 以上の調査報告の通り、検察が急変患者の血清、尿、点滴ボトルからマスキュラックスが検出されたという鑑定結果、鑑定資料の入手、保管に重大な疑問があります。しかも、鑑定資料を合理的な理由もなく全消費し、反証を不可能にした大阪府警科学捜査研究所の鑑定意見書を証拠として採用することは許されません(前号に掲載)。
 また、急変患者の原因について、マスキュラックスによるものとするには矛盾する症状があることが専門医からも指摘され、専門医によって合理的な説明がなされています。
 これらの事実は、患者には点滴を通じてマスキュラックスが投与されていないことを示しています。
 守さんの「自白」は、客観的事実とも矛盾し、信用できません。
 また、北陵クリニック関係者の証言は、警察や病院経営者などによる誘導や証言の「すり合わせ」の可能性も高く、慎重に判断すべきです。
 急変患者の増加は、病院経営悪化を理由に、重篤患者を積極的に受け入れたにもかかわらず、急変患者に対して救急処置ができる医師がいなかったことなどに原因があります。こうした、医療過誤、薬品のずさんな管理など病院の責任を回避するために、守さんにその責任を転化したという弁護団の主張も理解できます。
 したがって、守大助さんは無実であり、筋弛緩剤点滴混入事件を冤罪(えんざい)事件と確信し、支援することを決定しました。
<要請先>〒980−8639 仙台市青葉区片平1−6−1 仙台地裁 畑中英明裁判長
<激励先>〒980−0022 仙台市青葉区五橋1−5−13 県労連会館 救援会宮城県本部

 ■北陵クリニック
 北陵クリニックは、1991年10月、FES(機能的電気刺激)という先端医療を行う病院として開業しました。FESは東北大学の半田康延教授が中心となって開発した最先端のリハビリ治療法です。半田教授は、北陵クリニックの実質的な経営者であり、半田郁子副院長の夫です。
 FESは、脳卒中や交通事故、脳性麻痺などで手足の運動障害を持つ患者の障害の部位を電気刺激で動かそうとする治療法で、北陵クリニックはFESの実施病院として開設されました。
 ところが、この期待されたFES治療は、筋肉に電極を植え込むため、患部の衛生管理が困難で、取り除くことを希望する患者が出たり、保険適用がなく、1人200万円もの高額な医療費がかかるため、手術数も減少し、累積赤字が13億円ともいわれるほど経営的にも困難になりました。加えてFES以外の一般患者数も多くなく、薬剤師も置かず、人件費等の労働条件も悪く、一度に数人の看護師がやめる事件もありました。そして、病院の再建のために他の病院から高齢患者を受け入れるようになり、それが急変患者が増えた背景にあります。さらに、2000年4月、整形外科医で気管挿管など緊急処置ができる医者がいなくなり仙台市立病院に搬送される患者が増えた原因だ、と弁護団は指摘しています。
 そして、01年3月10日をもって北陵クリニックは多額な負債を抱えて、この事件が「原因」であるとして病院を閉鎖しました。国や県などからの多額の補助金を投入して開設した病院が、多くの負債を残して閉鎖になったにも関わらず、関係者の責任が社会的に問われていません。


 
救援会が新たに支援した冤罪事件
埼玉・相上事件

相上事件とはー事件の背景
 東建コーポレーション浦和支社(建設不動産会社)に勤務していた相上久夫さんが、上司であるO氏の自動車を蹴って傷つけたとする「器物損壊」で、「事件」の2年後、2002年7月26日起訴され、現在さいたま地裁刑事2部(山田和則裁判長)で審理されています。また、事件を口実にした解雇の無効を求める民事裁判も行われています。
 事件の背景には次のようなことがあります。相上さんとO氏は以前から意見があわず、「事件」前の8月5日も仕事のことで言い争い、7日に支社長は「上司に従えない者は懲戒解雇だ」と相上さんに懲戒解雇を言い渡しました。しかし相上さんが本社に確認すると支社長に解雇する権限はなく、解雇の決定もなく、相上さんはその後も出社を続けました。支社長やO氏は何とか相上さんを解雇したいとして、この事件をデッチあげたものです。

矛盾だらけ起訴事実
 検察の起訴事実は、O氏の一方的な主張に基づき、「2000年8月10日午後7時40分頃、O氏が会社から帰る際、相上さんが車でやってきて『逃げるな、この野郎』と怒鳴りながら駐車場から出ようとしたO氏の車の左前部を2回蹴って傷つけた」とするものです。
(1)事件発生時刻以前に車の傷を同僚が見た
 同僚のK氏は、8月10日午後6時半から7時の間に、O氏が「相上に車を蹴られ、パンクした」と言ったので、同僚数名と駐車場に行って車の傷を見た、と法廷で証言しました。
(2)早く帰れと社員を退社
 K氏は、当日、O氏や支社長が社員に「早く帰れ」と急(せ)き立て、通常より早く午後7時40分には会社を閉めた、と証言しました。社員の1人は「早く帰れと珍しく、魂胆」と手帳に書いています。この日、相上さんは午後8時半に戻るという予定が会社のホワイトボードに書かれており、他の社員を退社させた後に都合よく「事件」が発生したのです。
(3)実況見分調書には「被疑者不詳」
 O氏は「事件」直後に110番通報をし、午後8時20分頃警察官が来て実況見分調書が作成されますが、なぜかO氏は「犯人は男」としか述べておらず、調書には「被疑者不詳」となっています(警察官の証言)。弁護団は、O氏は通報の後すぐに警察が来ると思ったのに、実際は午後8時過ぎになり、相上さんの帰社時刻に近づき、相上さんと実況見分が鉢合わせになると困るので、「男」と述べたと指摘しています。
(4)相上さんのアリバイ
 相上さんは当日、午後6時25分から7時に東京・日本橋で、ある会社のS氏と面会していた事実があり、8月のお盆前に浦和まで30キロを40分では到着しません(弁護団の実験では、速度違反して高速道路を走っても54分、警察の2回の実験では54分と51分)。
 その後、7時すぎ相上さんは会社に電話し、同僚が「会社が相上さんを入れないために鍵を変えた」と教えてくれたので、そのまま千葉・柏市の自宅に午後9時頃に帰りました。
(5)O氏の言うような犯行は不可能
 O氏は、相上さんが駐車場を出ようとした車を2回蹴って、靴底の痕があったとしています。傷は10センチと数センチの線上のもので、やわらかな靴底の蹴りでこのような傷は出来ません。また、2カ所の傷の間隔は約70センチあり、車が走っている間に2回蹴ることは不可能です。
 以上のように、相上さんを「犯人」にするには重大な矛盾が多く、解雇するためデッチ上げられたものといえます。
 裁判は、9月8日に本人尋問が行われ、9月22日には反対尋問が予定されています。今後、さらに弁護側立証をすすめることを裁判所に認めさせるたたかいが必要です。みなさんのご支援をお願いします。
<要請先>〒336−0011 さいたま市高砂3−16−45 さいたま地裁刑事2部 山田和則裁判長
<激励先>〒336−0012 さいたま市岸町7−4−27 共立会館内救援会埼玉県本部
たたかい人
不当解雇撤回求めイマジカを社会的世論で包囲する向井忠夫さん

 35年間まじめに仕事をしてきた向井忠夫さん。たった1通の郵便で理由もなく解雇されました。1人のたたかいは多くの仲間に支えられ、1審で勝利。いま、親会社イマジカを追い込んでいます。

 「京都エステートは向井さんの解雇を撤回せよ〜」「親会社イマジカは一日も早い争議の解決をはかれ〜」――冷夏から一転、30度を超える暑さとなった9月11日、向井忠夫さんと100人を超える支援者は、不当解雇を行った京都エステートとその親会社であるイマジカ(現・FEL=東京・品川区)に対し全面解決を求め、シュプレヒコールをあげました。
■設計一筋に35年間
 向井さんは1947年に京都市に生まれ、京都市で育ち、そして地元の工業高校に進みました。図面を書くことが好きだった向井さんは、1938年創業の老舗・京都機械(京都市)に就職し、「ここで一生自分の好きな仕事ができる」と、不当解雇されるまでの35年間、染色整理仕上げ機械の設計一筋、仕事に打ち込みました。設計する機械は1つの装置が数億円もするもので、生地の最終段階となる色染めや、型くずれしないような特殊加工(形状記憶)を施すものです。自分の設計したものが製品として完成したときが、仕事への誇りと喜びを感じる瞬間です。
■活気あった職場が首切りで
 入社時500人ほどの従業員で職場は活気にあふれ、低賃金政策には25日間にもおよぶストライキを貫徹し改善させるなど、労働運動も盛り上がっていました。向井さんも組合役員として奮闘しました。これに対し、会社は自分の言いなりになる組織をつくり、組合の弱体化をはかってきました。そのため、「繊維不況」、「円高不況」などを理由に次々と人減らし・「合理化」が強行され、従業員は減らされていきました。
 さらに職場を揺るがすことが95年に起きました。会社は、京都市から電車で2時間以上もかかる丹波高地の一角、三和町への工場移転を強行しました。それに伴い、通勤や単身赴任が難しいと多くの労働者が退職に追い込まれ、向井さんも平日は会社のワンルームマンションに暮らし、週末を家庭で過ごすという生活が6年半もつづきました。
 そして2001年9月、イマジカが「赤字」を理由に、機械製造部門を閉鎖し、従業員全員を解雇、新会社に譲渡することを決めました。これに対し、連合の組合が合意の方向を出したため、向井さんは同組合を脱退し、全日本金属情報機器労働組合(JMIU)に加入しました。向井さんは新会社への採用を希望しましたが、その保証が得られないため、やむをえず京都エステート(京都機械が社名を変更)に雇用継続することを会社に通告しました。京都エステートには、役員6人、そして500人いた従業員がついに向井さんただ1人に。その2ヵ月後、会社は、「やってもらう仕事がない」「会社の業績悪化」を理由に、1通の郵便で解雇してきました。
 「理由もなく解雇されるのは納得がいかない」と解雇撤回を求めて、翌02年1月、裁判に訴えました。
■「解雇無効」の勝利判決
 2003年6月30日、京都地裁は、(1)解雇は会社の「権利濫用」であり無効とする、(2)京都エステートは2001年11月30日から判決確定日まで、毎月賃金を支払え、との全面勝利判決を言い渡しました。
 リストラの嵐が吹き荒れる中で勝ちとった判決は、向井さんのガッツポーズの写真とともに翌日の新聞に大きく報じられました。
 なぜ解雇が不当なのか。裁判所の判断は、(1)イマジカグループや新会社への雇用継続は十分可能であったのに、解雇回避の努力が尽くされていない、(2)正当な理由なく団体交渉を拒絶した上、(解雇をするため)就業規則から組合との協議事項を削除するなど、解雇手続は相当でない、というものでした。この判決は、リストラとたたかう多くの労働者を励ます内容です。
 会社は控訴し、いまだに職場復帰を拒否しつづけています。
■弾圧事件で救援会と出会う
 救援会との出会いは11年前。92年4月、日本共産党の演説会案内のポスターを仲間と張っていたところ、不当逮捕されました。黙秘でたたかい抜き、8ヵ月にも及ぶたたかいの末に不起訴を勝ちとりました。翌93年には、地元南区と隣の下京区とあわせた救援会下南支部を力を合せ立ち上げ、事務局長を引き受け、現在は中央委員としても頑張っています。
 事件以来のつきあいという救援会京都府本部・橋本宏一事務局長は向井さんについて、「まじめで誠実、原則を貫いてねばり強く、楽天的。笑顔をたやしたことがありません。だから向井さんのまわりには人が集まってくるんです」とその人柄を紹介してくれました。あまりニコニコしているので、弁護団から「もっとくやしそうな顔をして訴えて」と注文を受けたというエピソードもあるほど。しかし、不当解雇の身、「なかなかゆっくり落ち着いた気分にはなれないですね」との思いも……。
■仲間の支援にたたかう勇気
 はじめてのイマジカ前での宣伝行動には、JMIUの地元支部をはじめ池貝、映演総連の仲間22人が参加してくれました。これまで付き合いのなかった地域から多くの仲間が参加してくれたことに、向井さんは感動とたたかう勇気をもらいました。
 1審も大詰めを迎えた時期に、「勝利するためには、郵便でお願いするだけではだめだ」との仲間の助言をうけ、首都圏と関西圏を1週間ずつ訴え歩きました。どこでも、JMIU、金属反合理化闘争委員会の仲間や同じように争議をたたかう仲間、そのOBが一緒に歩いてくれ、「あの人に会いに行こう」「次はあの職場に行こう」と次々と案内をしてくれました。どこに行っても「頑張って」と励ましが返ってきました。人の温かさが心にしみました。人と人とのつながりの大切さを実感しました。向井さんも府外から争議の仲間が来たときには一緒に歩いています。要請以後、多くの署名が寄せられるようになりました。その結果、団体署名1506団体、個人署名1万5262筆を裁判所に届けることができました。「救援会の北海道・伊達支部からは署名と丁寧な手紙が届きました。五反田駅前での宣伝では見知らぬ女性が5000円のカンパをしてくれました」、いつも笑顔の向井さんの顔がさらに緩みます。
 「理由のない解雇は納得できない。人生に悔いを残したくない」――多くの仲間に支えられた1人の労働者のたたかい。支援の輪をもう一回り広げてください、全面解決し心からの笑顔が見られるように。
(編集部・鈴木)

〈激励先〉向井忠夫さんを守る会(〒604―8854 京都市中京区壬生仙念町30―2 ラボール京都6階 JMIU京滋地本気付)
〈要請先〉〒141―0022 東京都品川区東五反田2―14―1 FEL・長瀬文男社長/同 京都エステート・金子武久社長



戦争への道許さないー亀戸事件追悼会開く
亀戸事件追悼会
 1923年9月に発生した関東大震災の混乱に乗じて、10人の若き労働運動家・社会主義者らが東京・亀戸(かめいど)警察署内で、天皇制権力と軍隊によって虐殺された亀戸事件の追悼会(主催・同実行委員会)が9月7日、江東区・浄心寺で行われ、約50人が参加しました。
 追悼会では、日本共産党東京都委員会、日本民主青年同盟、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟から追悼の辞が述べられ、有事法制やイラクへの自衛隊派兵など戦争への国づくりが強まるなか、これを許さずたたかう決意が語られました。
式典後、境内にある亀戸事件犠牲者之碑に献花し、犠牲者への追悼と2度と亀戸事件を繰り返させない思いをこめ手を合わせました。

関東大震災80周年記念行事に600人
 関東大震災80周年にあたり、犠牲者を追悼し、歴史の真実を世界的視野から考えようと、8月30、31の両日、東京・江東区内で記念集会(主催・同実行委員会)が開催され、のべ600人の参加で成功しました。
 集会では、韓国、中国からパネリストを招き、関東大震災での虐殺問題や追悼・顕彰活動などが報告・討議されました。日弁連からは、小泉首相に対し、虐殺された朝鮮人・中国人の遺族への謝罪と原因の究明を求める勧告書を提出したことが報告されました。集会では、虐殺の真相究明とともに、連帯を広げることの必要性が強調されました。 
長崎満氏の逮捕事件について
日本国民救援会中央常任委員会

 日本国民救援会中央常任委員会は9月18日、7月10日に起きた長崎満氏の逮捕事件について、この間の調査をふまえて、以下のコメントを発表しました。

 7月10日深夜、痴漢冤罪長崎事件の元被告長崎満氏が、「東京都迷惑防止条例」違反(電車内でカメラ付携帯電話によって女性を無断で撮影)の疑いで現行犯逮捕・起訴され、9月26日に第1回公判が開かれます。長崎氏は容疑事実を基本的に認め、謝罪の意思を表明しています。
 長崎氏は、1997年10月に痴漢をしたとして逮捕されましたが、無実を訴えて最高裁まで争ってきました(2002年9月上告棄却で不当な有罪判決が確定)。同氏から支援要請を受けた救援会は、この事件を救援会の「冤罪事件を支援する基準」にもとづき調査し、冤罪事件として支援することを決定し、全国的な支援が取り組まれました。
 それだけに今回の事件が、事件関係者、救援会員、加盟団体をはじめ支援してくださった全国のみなさんに大きな衝撃を与えることになりました。そして、冤罪を晴らすためにたたかう事件関係者への国民の不信と誤解を招く結果となり、きわめて遺憾です。
 救援会は、長崎氏の行為は絶対に許されない反社会的行為であり、その責任は極めて重大であると考えています。
 救援会は現在、全国で数多くの人権侵害事件、冤罪事件を支援しており、また救援会にはたくさんの人びとが支援を求めてきています。救援会は、救援運動が果たしている社会的な役割を自覚して、今後この運動をいっそう発展させる決意です。

ことば箱
関東大震災下の虐殺A
●朝鮮人虐殺

 大地震直後から「鮮人(「朝鮮人」の蔑称)が暴動を起こした」「鮮人が井戸に毒を投げいれている」などのデマや事実無根のうわさが市中に流れました。政府はそれを追認した上、朝鮮人の取締りと「自警団」の結成を呼びかけました。その結果、軍隊や、在郷軍人や、青年団などを中心に結成された「自警団」によって、何の罪もない、6000人を超える朝鮮人が日本刀やとび口、竹やりなどで殺されました。
 この背景には、朝鮮人への蔑視、排外主義、当時高揚していた朝鮮人の民族解放運動への危機感、そして低賃金労働力としての朝鮮人労働者の進出に対する日本人労働者の反感などがありました。
 日本政府は、いまだに朝鮮人・中国人虐殺に対し責任をとっていません。この8月、日弁連は、国が、虐殺された被害者・遺族に対し謝罪し、真相を明らかにするべきである、との勧告書を小泉首相に提出しました。過去の責任をあいまいにさせてはいけません。(つづく)





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